越後長岡藩 牧野のお殿様全員集合!|まちなかキャンパス長岡
またお会いしましたね、逸姫さま

越後長岡藩牧野家の歴代藩主や奥方の顔を復元するプロジェクトが完了したことを受け、2023年5月2日(火)に報道陣向けに公開、同月6日(土)と7日(日)に長岡市内で一般公開されると知ったので出掛けてきした。
実は昨年秋、現在村上市で発掘が行われている上野遺跡の焼人骨集積土坑説明会に参加した際の主催者が、今回の復顔プロジェクトを行った新潟医療福祉大学の自然人類学研究所であり、その際に研究所内で復顔模型の実物数体を拝見していたのです。
今回は長岡藩主など11名のお顔が一堂に公開されるというので、ワクワクした気分で会場となっていた「まちなかキャンパス長岡」へと向かいました。

縄文時代後期「上野遺跡」の出土焼人骨一般公開および「自然人類学研究所」の展示公開に行ってきました
今年10月29日付けの地元紙の朝刊にあった「縄文後期 村上の上野遺跡 焼けた人骨 あす公開」の見出しに心ひかれ、人骨が一般公開された翌日に、会場となった新潟医療福祉大学へと行ってきました。...
まちなかキャンパス長岡で行われた「殿様全員集合!」
今回の会場となったまちなかキャンパス長岡は、2011年9月に長岡駅前にオープンした「学びと交流の拠点」です。長岡藩は現在の長岡駅に城を構えていましたので、当時の大手通に建つ施設といえます。
今回の会場は施設4階にある展示ギャラリーです。
一般公開日は丁度GW後半のお天気が崩れた2日間になりましたが、自分たちの町のお殿様のお顔を拝もうといった勉強熱心な市民が大勢見学にいらしていました。
なお、今回も復顔プロジェクトの代表である新潟医療福祉大学自然人類学研究所の奈良所長に確認し、会場内の展示物についての撮影、ネット上にアップしてもOKとの許可をいただいての記事掲載になっております。

長岡藩主牧野家
牧野家は元来、三河国牛久保(現在の愛知県豊川市)で勢力を持っていた土豪で、戦国時代に徳川家の家臣として功績をあげたことで譜代大名となりました。
会場説明案内より
元和4年(1618)に藩祖牧野忠成が長岡に入封して以来、明治4年(1871)の廃藩に到るまで13代約250年間、牧野家は長岡藩主として長岡一帯を治めました。石高は7万4千石を誇りました。
また、9代忠精、10代忠雅、11代忠恭は3代にわたり京都所司代や老中など江戸幕府の要職を務めるなど、牧野家は幕府運営にも大きく貢献しました。

長岡藩主牧野家歴代の復顔
1982~83年、港区三田済海寺長岡藩主牧野家墓所の改葬に伴う発掘調査において、歴代藩主・長子9体と正室5体の遺骨が出土しました。これらの遺骨の人類学的調査により、牧野家の頭骨には、徳川将軍家などにみられる幅狭い顔麺部、狭く高い鼻根部、華奢な下顎などの形質的特徴、いわゆる「貴族形質」が認められることが明らかとなりました。
会場説明案内より
これらの遺骨は長岡市栄凉寺に再埋葬されましたが、その際制作された頭骨模型をもとに、2013年に5代忠周の復顔が国立科学博物館によって制作され、2016年以降は新潟医療福祉大学自然人類学研究所が中心となって、6代忠敬、7代忠利、9代長子忠鎭、10代忠雅の復顔が制作されました。2020年には牧野家歴代ご遺骨の再調査プロジェクトが開始し、その一環として未制作だった藩主4体。正室2体の復顔が実際の遺骨をもとに、CTスキャンや3Dプリンターなどの最新技術を用いて制作されました。
本プロジェクト研究によって、いわゆる「貴族形質」を示す江戸時代大名の殿様顔が視覚的により理解しやすくなることが期待されます。
貴族形質
江戸時代の身分制社会の頂点に位置する徳川将軍家や大名家など支配階級の人々の頭骨は、町人や農民などの庶民とは形質的に大きく異なることが知られています。
会場説明案内より
庶民は寸の詰まった丸顔などを示すのに対して、将軍や大名には極端に狭い顔部、高く大きな眼窩、狭く高い鼻根部、華奢な下顎などの特徴がみられます。
このような特徴は、戦後徳川家や大名家の墓所改葬に伴う遺体調査をした東京大学の鈴木尚により、「貴族形質」と呼ばれました。

済海寺牧野家墓所発掘調査
1982~83年、東京都港区済海寺牧野家墓所の改葬に伴う発掘調査が行われました。調査の対象となったのは、2代・4代~11代藩主、9代長子、4代・6代・8代~11代正室、2代藩主生母、子女の墓計14基です(うち4基合葬墓)。
会場説明案内より
墓石は、子女合葬墓を除きすべて宝篋印塔であり、全体の高さは将軍墓ほどではないが3mを超えるほど巨大であり、さらに石室は地下数m下にあることが分かりました、本調査ではそれまで不明だった大名墓の構造の一端を明らかにした点で大きな意義があります。
栄凉寺に再埋葬された遺骨の調査
済海寺での調査後、歴代藩主・正室等の墓碑は長岡市の蒼柴神社に移され、遺骨は菩提寺栄凉寺に再埋葬されました。2020年7月17日、牧野家ご遺骨の再調査プロジェクトのため、牧野忠昌氏立会いのもとご遺骨箱の取り上げが行われました。同7月24日には新潟医療福祉大学自然人類学研究所にてご遺骨箱を開封し、現在研究が進められています。
会場説明案内より
蘇った越後長岡藩主「牧野家」の面々
牧野家17代当主の牧野忠昌氏(長岡市立科学博物館名誉館長)の協力のもと、新潟医療福祉大学自然人類学研究所が中心となって2016年より研究が行われていた牧野家藩主の復顔プロジェクト。4代・5代・6代・8代については京都芸術大学、7代・8代正室・10代正室については東北大学、9代・9代長子・10代・11代については佐賀大学との共同作業により、予定されていた模型の全てが完成したとのこと。この日の会場には2013年に国立科学博物館によって制作された5代忠周(ただちか)公の復顔模型を含む全11体の、長岡の歴史をつくってきた歴代藩主や奥方のお顔が揃いました。
藩主や奥方の復顔模型の公開はこれまでも完成の度に段階的に行われてきましたが、骨の欠損が大きく復元に時間を要した8代忠寛(ただひろ)公、11代と14代を努めた忠恭(ただゆき)公が今回初披露されています。
初公開された藩主2人の復顔模型

8代藩主忠寛公の復顔模型

11代・14代藩主忠恭公の復顔模型
11代・14代藩主であった忠恭(ただゆき)公は江戸時代後期から明治期にかけて活躍されており、実際のお顔が写真としても残されています。復顔模型と見比べても顔の特徴がよく捉えられており、復顔技術の正確性が良く伝わってきました。
同じ血を感じます
6代藩主忠敬公(左)/7代藩主忠利公(右)
このお2人はいわゆる異母兄弟。
父親はどちらも同じ牧野貞通公(常陸国笠間藩初代藩主)であり、6代忠敬(ただたか)公の母は正室であった路久姫(本庄氏娘)、7代忠利(ただとし)公は側室であった里代(本庄氏娘)が母になります。
6代忠敬公は20歳、7代忠利公は24歳で他界されており、どちらも今でいえば高校生・大学生の年頃に藩主を努められています。
復顔模型の要所要所からも似た雰囲気を感じますが、実際に動いて表情が変わったりするとまた良く似て見えるのでしょうね。
写真左から:8代正室長姫/8代忠寛公/5代忠周公(国立科学博物館所蔵)/4代忠寿公
こちらは写真右側から、父→息子→孫→孫の嫁といった並びになっており、5代忠周(ただちか)公は4代忠寿(ただかず)公と側室であった藤(丸山伝兵衛娘)との間にできた子であり、5代忠周公と側室であった茂勢(大原氏娘)との間の子が今回初公開された1つの8代忠寛(ただひろ)公になります。
初公開されたもう1体の11代・14代の忠恭公も面長な印象でしたが、5代忠周公と8代忠寛公の親子にも同じことがいえ、江戸時代の7万4千石の大名家にも貴族形質の特徴が色濃いことが伺えるのではないかと思いました。
写真左から:10代正室逸姫/10代忠雅公/9代長子忠鎭公/9代忠精公
こちらは写真右から、父→息子(長男)→息子(弟)→弟の嫁といった並びになります。
実は家系図的には1つ上の復顔模型から繋がっていて、9代忠精(ただきよ)公は8代忠寛公と正室長姫(武蔵国岩槻藩初代藩主大岡忠光娘)の子になり、両親と息子の復顔模型が見られる貴重な代であると思います。
そして中央のお2人は、9代忠精公と正室であった満勢姫(丹波国篠山藩2代藩主青山忠高娘)との間に生まれた実の兄弟。長子であった忠鎭(ただしず)公は享年21、10代忠雅(ただまさ)公は享年60と復顔模型の年齢もその時の頭蓋骨に従って作られてはいますが、同じ両親を持つ兄弟は、先の異母兄弟以上によく似た特徴を持っているのではないかと思いました。
その他展示資料
藩主・奥方愛用の品々

こちらの展示は長岡市のさいわいプラザ内にあり、現在、牧野家17代当主が名誉館長を務める長岡藩主牧野家資料館の所蔵品だと思います。
私は昨年の晩夏にたまたま長岡藩主牧野家資料館訪ねた折、そこでこれらの品を拝見しています。その僅か数ヶ月後に新潟医療福祉大学の自然人類学研究所にお邪魔する機会に恵まれ、そこで地元紙などにも取り上げられていた牧野家の復顔模型の実物を目にするわけです。その中にあったのが8代正室長姫さまと10代正室逸姫(いつひめ/相模国小田原藩第7代藩主大久保忠真娘)さまのお2人であり、使っていた品にも姫様のお名前があったことを思い出しながらお顔を拝見したものでした。
牧野家の人々
幕末~明治の牧野家
現代の牧野家
復顔制作について
復顔とは、頭骨をもとに皮膚・脂肪・筋などの軟部組織のデータなどを用いて生前の顔貎を復元する人類学的手法です。生前の顔立ちを視覚的に捉えることができ、犯罪調査における白骨死体の身元特定や、遺跡から出土した古人骨ないしは現代に遺る遺骨から歴史上の人物の顔貌復元などに用いられています。
会場説明案内より
牧野家歴代11名復顔
復顔制作の工程
階級による骨格の違い
会場内には青森県八戸市田向遺跡から出土した江戸時代の農民部衆民の復顔と、米百俵の故事でも有名な長岡藩士・小林虎三郎の復顔模型も展示されていました。
小林虎三郎の復顔からは、面長で鼻筋が通っている殿様の復顔とは別の系統であることが伺えます。
実は小林虎三郎は幼い頃に左目を失明しています。写真に残るヒゲを生やした顔しか知らない私には、復顔の虎三郎が少し新鮮に思えました。
おしまいに
研究室にあるスチール製の保管棚で見るのとは違い、クリアなケース越しに拝見する藩主や奥方の顔は生え際や毛穴までもが見事に再現され、まるで生きたままそこにいらっしゃるような錯覚さえありました。
もともと5代忠周公の復顔模型は国立科学博物館所蔵のものですし、もしかしたらもう二度と、長岡の地で牧野のお殿様や奥方さまのお顔が一堂に揃うことも無いのかも知れません。そう思うと、今回の一般公開に参加できたのは、とても幸運だったのだと思います。
そして保管されている14体の頭骨のうち、破損が酷くて復元が保留されている6代正室直姫、9代正室満勢姫、11代正室籌姫の復顔が、現代の最先端技術で叶うことをお祈りしています。
Saturday, May 6, 2023
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