二年ぶりの彌彦神社初詣と我が家のお正月
皆さま、あけましておめでとうございます。
本年もどうぞ宜しくお願い致します。
遅ればせながら、ようやく私のブログ始め。
2022年最初の記事は初詣に行ったことと、新しい家で迎えた初めてのお正月の様子などです。

トーンダウンしたリビングで過ごす夜がお気に入りです
昨年は新型コロナ真っ只中で初詣も氏神様のみでしたが、今年はオミクロン株の流行前でコロナも少しだけ落ち着いている時期ということもあり、思い切って我が家の恒例行事になっていた越後一宮「彌彦神社」への参拝にも行って参りました。
クリスマス寒波の次は年越し寒波だというのでちょっと身構えていましたが、暴風吹き荒ぶ時は積雪は少ないので、コロコロとお天気の変わる中、待ち時間少なめで無事に二年ぶりとなる「い(お)やひこさま」初詣を済ませて来ました。
初詣、まずは一番大事な氏神様にご挨拶
新居へと移って初めて迎えた新年。
正月2日は久しぶりに子どもたちが集まるというので年の瀬に新潟の郷土料理「のっぺ」を仕上げながら、おそらく一生のうちにもう二度とは無い(はずの)、新築の家でお正月を迎えるのだという幸福な時を噛みしめていました。
本来ならば、新しく氏子となった近くの神社は二年詣りで行きたかったのですが、大晦日は強い冬型の気圧配置で横殴りの吹雪きの状態だったので出掛けることを断念し、元日の昼頃に初詣に向かいました。
引っ越してからもう何度となく、Dawn太との散歩で立ち寄っては鳥居の外からお参りしていた氏社(ペットの参拝が許されている神社仏閣以外、境内にペットを入れることは失礼だと思っているので、いつも鳥居外からお参りしていました)。
コロナ禍でも本坪鈴には普段通りに鈴緒が付いた状態でしたし、参拝すれば「お神酒があるから上がって行きなさい」「そこのカゴの中のミカンも持って行きなさい」と、のんびりとした田舎の良いところがたくさん見えた(笑)初参拝でした。
越後一宮・彌彦神社へ二年ぶりの初詣

氏神様に新年のご挨拶を済ませ、その足で次に向かったのは、例年25万人が初詣に訪れる新潟県随一のパワースポット「彌彦神社」です。
東京スカイツリー開業の頃、同じ高さということで話題になった標高634mの弥彦山をご神体とする彌彦神社。越後には一宮が二つ存在し、そのうちの一つが御創建から二千四百年以上を数える彌彦神社です。
御祭神は天照大御神の曾孫にあたる天香山命。またの名を
いざ、丼家的「いやひこさま正式参拝ルート」で初詣
元旦のうちは少し晴れ間も見られ、それで「初詣行って来よう!」と思ったのですが、やはり風が強いのでお天気は刻一刻と変化し、氏社に向かう頃からまた横殴りの吹雪きになってしまいました。お陰で元日昼頃の参拝客も例年よりもずっと少なめ。毎年恒例となっている、我が家が思う「正式参拝ルート」で彌彦神社初詣に行ってきます。
彌彦神社参拝前にお参りしておきたい、罪や穢れを清める「祓戸神社」

彌彦神社初詣に行くにも直に行かないのが丼家のルール。まず最初に向かうのは、大杉通り近くに鎮座する彌彦神社の境外末社のひとつ
彌彦神社の参道杉並木が見られる大杉通りは、その昔の彌彦への本街道筋にあたります。祓戸神社はその入口となる場所に位置しており、彌彦神社境内全体を見回してこの地に不浄が侵入するのを防ぎ、訪れる人の罪・けがれ・過ちを祓い除くといわれる神社なので、心身を清めるためにも彌彦神社参拝前には必ず立ち寄りたい場所であると思っています。

祓戸神社の鳥居脇にも大きなケヤキが見られますが、参道途中にも巨大なケヤキの古木があり、そこを抜けた先に質素な造りの社がひっそりと鎮座しています。
御祭神は祓戸四柱大神である「
大きなトラブルも無いのに何だか最近調子が変だな…という時も、こちらの祓戸神社をお参りすると良いそうです。
「祓え給え 清め給え…」
正面入口である「一の鳥居」から入場しよう

越後随一のパワースポットとしても名高い彌彦神社。境内へと至る鳥居が幾つかありますが、やはり正面入り口である「一の鳥居」から入るのが正式ルートになります。
玉の橋と石橋

一の鳥居を潜って表参道を進むと、程なく御手洗川に架かる石橋を渡ることになります。巨大な一枚岩を切り出して造った石橋は、繋ぎ目が無いのが特徴といわれています。
そして石橋を渡る際、左手奥に見える朱塗りの橋が玉の橋です。こちらは神様だけがお渡りになれる橋です。

ちなみに、神社の参道は隅を歩くのがマナーです。
二の鳥居手前で感じる彌彦神社の歴史

一の鳥居から歩いてきた表参道ですが、神札授与所を過ぎると十字路になっており、ここでくるりと45度左側を向き、さらに奥に見える二の鳥居方向へと向かうことになります。
その昔は御手洗川で身を清めてから参拝したといわれていますが、現在は▲写真の左側に写る手水舎で清めます。
そして手水舎の向かい奥、お炊き上げの煙の向こうに見えているのが、伊夜日子大神が地面に突き立てられた御杖が大樹となり、それによって彌彦神社の位置が定まったと伝わる御神木の椎の木です。
実はその昔の彌彦神社は宝物殿前、現在の社殿跡と呼ばれるところにありました。しかし、明治45年(1912年)3月に発生した弥彦大火により、彌彦神社は社殿を焼失するという最悪の事件が起こります。昔の社殿には越後のミケランジェロと称された石川雲蝶の作品が向拝などを飾っていたと記憶していますが、何もかも一瞬にして飲み込んでしまう火は恐ろしいものです。
後の大正5年(1915年)に再建されたのが弥彦山をバックに佇む現在の社殿で、すでに御鎮座から100年余の時が経ちました。

二の鳥居を潜って、さらに奥へと進みます。
お天気の良い年ですと、この二の鳥居辺りから参拝の行列ができているのですが、コロナ禍で元日参拝を自粛している人、さらには荒天のせいもあって参拝客の数がとても少なかったです。
初詣で出会える御神馬

二の鳥居を過ぎてすぐ右手にあるのは、神様がお乗りになる馬を祀った

神馬舎の扉は普段閉ざされています。しかし、お正月と燈籠神事の時にだけ開かれて御神馬を拝むことができるので、初詣の際には是非間近でご覧になってみてください。
木像の御神馬は、山本瑞雲(上野の西郷隆盛像の作者|高村光雲の一番弟子)の作です。
随神門を潜って境内へ

さて、皆さんは「彌彦神社事件」というのをご存じでしょうか?(私も生まれる前の大惨事でしたが…)
まだ年が明けて間もない昭和31年(1956年)1月1日の午前0時20分頃、初詣で賑わう彌彦神社の境内において、福餅を奪い合って高さ3mの石段から玉垣を崩して転落、将棋倒しになって124名もの人が亡くなるという大事故が起こっているのです。(重軽傷者102名)
その事故現場というのが、まさに随神門前に見える石段と玉垣のことで、その事件を踏まえ、近年の初詣では二の鳥居から随神門は一方通行、さらに境内に入る人数制限を行っての参拝となっています。
一応この時も参道の一方通行規制がかかって警備員さんもいらっしゃったように記憶していますが、なんせ今年は参拝客がスカスカなのでね。
拝殿にて参拝

例年、二の鳥居から随神門まで1時間待ち、さらに随神門を潜って拝殿前に到達するまで30~50分待ちが当たり前の境内も、埋められた人の数がその半分にも満たないという▲この状態。
拝殿前もロープで仕切りがなされ、一旦左右に別れて入場し、参拝後は近い出口から一方通行で戻るような配慮がされています。

ご神体である弥彦山をバックに建つ彌彦神社の社殿。いつ訪れても凛とした風格ある佇まいに背筋が伸びる思いです。
さすがに拝殿前は密状態になりますね。しかも、皆さん拝殿中央からお参りしたいと思われるので、いつでもお参りに来れる立場の我が家は、いつも左右どちらかの賽銭箱ギリギリの隅っこからお参りします。真ん中で拝んでも隅っこでも、ご利益は変わらないと言われています。
そして彌彦神社の参拝は、出雲大社や宇佐神宮と同じく「二礼 四拍手 一礼」が正式とされています。
そうそうお賽銭ははずめませんが、柏手だけは大きくはっきり四回打ってお参りする丼家です(笑)。

コロナ分散参拝のお陰で、今年は境内の待ち時間も10分ほどでサクッと初詣が終了しました。
このあと、一緒に行った末っ娘だけ境内でおみくじを求めていました。引いたおみくじも何処かに結ぶのではなく、回収箱のようなものが設置されていて、これも新しい時代の様式なのだと思って見ておりました。
摂社・末社

我が家は毎回競輪場側の通路から駐車場へと戻るので、出てきた先には伊夜日子大神の御子神などを祀った摂社、御祭神にゆかりの深い末社が立ち並ぶ場所があり、こちらもあわせてお参りしてから帰ります。
先に紹介した祓戸神社も末社の一つでしたが、彌彦神社の境内外には合わせて18もの摂社・末社が存在し、境内には8社が祀られています。

最奥に祀られる末社・十柱神社(国重要文化財)
初詣期間中は参道の一方通行規制のため摂社・末社への正面通路も立ち入り禁止になってしまいますので(逆行防止のため?)、どうしても彌彦神社の参拝後に立ち寄るかたちになってしまいます。しかし平時参拝の場合は、彌彦神社に参拝する前に摂社・末社を参拝するのが正しいルートになるようですのでご注意ください。
初詣後の彌彦境内散歩
彌彦神社で一通りの参拝を終えたあとは、さらにもう少し「パワースポット」と称される彌彦神社の境内巡りをしてみようと思います。
火の玉石で運試し

末っ娘は拝殿前の授与所でおみくじを引いていましたが、おみくじでなくても運試しができる場所が、「重い軽いの石」や「津軽の火の玉石」とも呼ばれる、こちらの火の玉石です。
火の玉石とは、心の中でしっかりと願いごとを思い浮かべながら石を持ち上げ、持ち上げた石が軽いと感じたならば祈願は成就し、重いと感じたならば願いは難しいといわれる、昔ながらの「石占」の一種です。

私は
奉納品の石油蒸留釜

以前にも訪れたはずの火の玉石の場所が定かでなく、探している時に偶然見つけた、神社に似つかわしくない珍しい奉納品が▲こちらの石油蒸留釜です。奉納者は「日本石油加工(株)柏崎工場」と記されていました。
実は日本書紀にも“越の国から「燃ゆる水」と「燃ゆる土」が献上された”と記されているように、新潟県内には石油が発見されている場所が数箇所あります。日本海に面してある出雲崎町もその一つで、以前、出雲崎で歴史散策をした際に、天領の里前にある石油産業発祥地記念公園で同じものを見たことがあったのを思い出していました。

北国街道 出雲崎宿散策
最近、柏崎からR352の海沿いルートで帰宅する事が度々あり、出雲崎を通過する度、気になっていた場所がありました。この日は少し時間に余裕があったので、思い切って寄り道してみました。R352は、その昔の北国街道。その標識...
石油蒸留釜は明治17年(1884年)頃、新潟県出身の田代虎次郎氏によって考案された、日本初の石油精製装置です。
二十石蒸留釜とも呼ばれた石油蒸留釜は、原油を締め切った釜に入れ、下から熱して原油から蒸発するガスをパイプで水中を通して冷やして液体にするという簡単な仕組みのものでした。
そして、石油蒸留釜は日本国内に二基しか現存しないとの説明。つまり、先の石油産業発祥地記念公園と、この彌彦神社の奉納品の二基ということだと思います。
彌彦神社に石油蒸留釜が奉納されたのが平成13年(2001年)3月のこと。明治の頃、世界初の海底油田掘削を行った日本石油加工(株)。その柏崎工場が、102年という歴史の幕を閉じたのと時を同じくしています。
鹿苑で神の使いに癒される

いやひこ 神の麓に 今日らもか 鹿の伏すらむ 皮服(かわころも)着て 角つきながら
万葉集 巻十六
我が国最古の歌集「万葉集」にある彌彦神社の歌にちなみ、現在も境内で鹿が飼育されています。

人から餌を貰い慣れているらしく、早速人懐っこそうな子が近づいてきました。

寒い時期は鹿が小屋の中に入って出て来ないことも多いのですが、この時は雪が降って寒かったにも関わらず、多くの鹿が苑内を歩き回っていました。
雪が冷たくないのか?地面にひれ伏したまま微動だにしない鹿が一頭いたのですが、決して寝ているわけでなく、しっかりと監視されていました…私(笑)。

最初に近づいてきてくれた可愛い子、今度は足元に落ちていた木の葉を拾ってムシャムシャと食べ始めました。
美味しそうに葉っぱを食べている可愛い子を見つけて別の鹿が寄ってきましたが、決して相手のものを横取りするわけでもないので、二頭並んで駆け引きしているような可愛い姿を間近に観察できました。
Dawn太の初詣はまたの機会に

彌彦神社の初詣
ボクだけ車で留守番でした
由緒正しい神社仏閣はペット連れでは行きたくないので、Dawn太はまた別の機会に、ペットのための神社でDawn太のためだけの初詣に行って来ようと思います。
おしまいに
まだまだコロナ禍にある2022年のお正月。だけど引きこもりっきりだった昨年とは違い、自分たちも初詣に出掛け、そして巣立った子どもたちが揃って帰省してくれました。
関東方面に住む息子はコロナ禍で結婚式も挙げられず、一昨年に入籍だけ済ませ、昨年夏に初めての子どもを授かりました。
私にとっては初孫ちゃん。生まれてからもずっと逢えないままでしたが、生後5ヶ月になったこのお正月にようやく初対面を果たしました。

年始で我が家に立ち寄ったあとの息子夫婦は、ホームに入っている義母と私の実家も訪ねてくれ、大婆さんたちもそれぞれにひ孫と対面できて嬉しい時間を過ごせたようです。
写真は、ひ孫を抱っこして大喜びな私の母。母の膝の上でピョンピョンしながら何度も笑顔を見せてくれたと、嬉しそうに話していた母。実は初孫ちゃん、私が抱っこすると泣いてばかりいたんですよ(汗)。
泣いても笑っても、何をしても可愛いのがお孫ちゃんというもの。今年はもっとたくさん会えるといいな。そしてこの夏は長女夫婦にも子どもが生まれる予定で、ますます家族が増えて嬉しい年になりそうな丼家です。
そして今年こそ新型コロナが大人しくなってくれて、また再び誰とでも自由に交流できる年になってくれることを祈っています。