節黒城跡|十日町市
記事のアップが今年中に間に合った(笑)。
まだ残暑厳しかった9月中旬の頃、リニューアルから1年が経った十日町博物館にお邪魔した際に十日町市内にある山城の情報を得たことがきっかけとなり、久しぶりの山城探検のため、旧川西町にある節黒城跡に行って参りました。
南北朝時代の正平年間(1346年-1370年)に新田義貞の三男・義宗によって築かれたと伝わる節黒城。妻有地方で最大クラスの山城は山頂の本丸域まで車で行けるので、整備の行き届いた主要部のみサクッと見学してきました。

節黒城跡
節黒城跡(十日町指定文化財 史跡|標高365m)
節黒城は信濃川の左岸、関田山脈系から南進する
枝嶺 の先端南部にその主郭群を置き、東に向かって築城された城郭である。郭群は麓から一之木戸・二之木戸(冬城ともいわれる)・三之木戸・実城部に区分され、三之木戸と呼称される場所以外には施設がみられる。(中略)
本丸に立つと信濃川流域に広がる中魚沼の河岸段丘を一望できる。中世には関東と越後府中を結ぶ重要な街道で、文明十八年(1486年)聖護院門跡道興準后、長享二年(1488年)に万里秀九が渡った「木落渡し」を眼下におさめられる。東方には北魚沼境にある後山城 、南東には南魚沼郡上田郡境の中将岳 を望み、北西には柏崎市と柿崎境にある旗持山 が遠望される。『中魚沼郡風土志』によれば、「本城址は新田氏の築く所にして、後村上天皇正平九年新田
義宗 、脇屋義治 兵を率いて、武蔵野守義興 の応援として関東に向ひ碓氷嶺 に陣す、我軍備えず大敗し、旗杖を棄て奔り、皆此に匿ると云。本城は固 と新田氏の急に築きしものにて、結構粗造、用材削らず、多節黒木を用いて一時の拒を為せしにより、節黒城と名く。(中略)に二百余年を過ぎ天文永禄の間、新田氏の族上野中務大輔長安 、上杉謙信の麾下に属し、地方を領し、勇名あり、慶長三年参議景勝封を会津に移される。長安止まりて従はす、庚子之役 (1600年)起こる兵を挙げて難に会津に赴く、後従ふて米沢に移り此城廃す」とあり、上野西栄寺十九世義忠 和尚の手になる文化六年(1804年)の「節黒城蹟記」も同様に伝えている。
(中略)また、上野中務長安が本城最後の城主であったことを幕末期の記録は伝えている。『日本城郭大系 第7巻(新潟・富山・石川)』、『中魚郡風土志』より抜粋
現地案内板より
説明
節黒城は信濃川西岸、標高362mの山頂部に築かれた山城です。昭和50年(1975年)2月26日に旧川西町の文化財に指定され、市町村合併後の現在は十日町市の指定文化財・史跡となっています。
目印になるのは川西ダムと節黒城跡キャンプ場。川西ダムの西側山頂部に主郭が存在し、ダムの南側の尾根には往時の一ノ木戸や二ノ木戸といった前要害の郭が存在しました。また、現在の節黒城跡の中腹には節黒城跡キャンプ場がありますが、この辺りの平地も城域のひとつであったような気がします。
キャンプ場を通り過ぎてさらに蛇行する車一台しか通れないような林道を走り続けると、やがて広めな駐車場のある広場に到達。車を降りると爽快な下界の眺めと共に、見張り城であった節黒城の往時を偲ばせるような展望台が目に飛び込んできます。

節黒城の主郭(本丸)は、川西ダム西側の比高180m程にある三角形をした頂部にあります。主郭からのびる尾根を空堀で遮断しつつ主要郭が配されています。北東側には見張りのための郭が儲けられ、東側斜面には防御のため多くの郭が見られます。
節黒城跡散策

節黒城跡の主郭は写真向かって右手側になりますが、やはり展望台が気になるので、まずはそちらへ向かってみます。
展望台

平成25年(2013年)10月に改築された節黒城跡展望台は、戦国時代末期に上杉家に仕え、最後の節黒城主であった上野中務長安の天守台を想定し、史実確認の上で規模・構造を検証して造られたものです。
現在展望台が建つ郭は往時の狼煙台であったとされ、展望台の最上階からは信濃川の流れや越後三山をはじめ、巻機山や谷川連邦、妻有郷など、360度のパノラマをたのしむことができます。

鐘楼台

展望台のある郭の北側に一段高くなって郭があり、そこに大きな「上野氏之碑」と記された石碑が建っています。節黒城最後の城主は上杉家に仕えた上野中務大輔長安で、景勝の会津移封に従って廃城になったと伝わります。
この郭は鐘楼台または見張台と呼ばれる場所で、郭の北側と東側をL字形に横堀が巡り、東側斜面に多くの段郭を設けて防御が固められています。
駐車場付近と通路

展望台から見た現在の駐車場の様子です。通路途中の丁字路に林道があり、通路左側斜面の高所に主郭、通路反対側は自然地形の断崖になっています。
現在は舗装されて改変していますが、駐車場からさらに奥の場所が一部大きく落ち込んでいるのが空堀の跡ではないかと思われ、駐車場のある場所も往時の郭の一つであったのではないかと想像します。
主要部へと向かう通路の複雑さが楽しい。

二ノ丸
整備された階段を登った先にある二ノ丸。建物があった名残りなのか、鮮明に残る土塁がみられます。
本丸(主郭)
山頂部の主郭への入口は、二ノ丸西側の削り残りの土塁からと二ノ丸展望台側からの二箇所。
標高362mの尾根上にある三角形をした主郭。中央に節黒城址碑が建っています。

南北朝時代に新田氏が築城した当初、急いで築かれたために砦の木が処理されず素材のままで、節が黒々と残っていたことから「節黒城」と名付けられたといわれています。
現在の節黒城の姿に改変したのは、戦国時代の城主であった上野氏の時代です。妻有地方最大クラスの山城といわれた伏黒城は、慶長年間まで使用されたと伝わります。
馬場跡
一旦二ノ丸まで戻り、さらに一段下にある馬場跡といわれる細長い郭へ。至る道周辺も複雑な構造になっていてワクワクする2つ目のポイントでした。

二ノ丸下にある細長い馬場跡
馬場跡から東側下方に歩いて行けそうな郭が何段にもなって配されています。Dawn太が嗅いでいるところには「十二太明神」と書かれた石碑がありました。
南側郭群と空堀

馬場跡郭の一段上、丁度二ノ丸の南側にあたる場所に空堀で区分され、連続した郭群がみられます。
空堀1の先は竪堀となって通路に落ちていました。
おしまいに
山深い場所にある山城でしたが、近年は保存会による整備も行われているらしく、歩き易くて見学しやすい節黒城跡でした。
私たちは山頂部にある本丸郭群のみの散策でしたが、誰にも遭わずに下山できるといいな…と思っていた車一台がやっと通れる林道を走行中、城山への入口標柱近くに車を停めて徒歩散策しておられる山城マニアの姿もあり、山麓にあるという一ノ木戸、二ノ木戸まで丁寧に見学したなら、妻有地方最大級の山城の規模もしっかりと把握できたのではないかと思いました。
そして気が付けば、誰もいないからと自由運動させたDawn太に、▲こんなにたくさんの秋のお土産が(汗)。
丁度マイボーム腺腫の術後回復期で、大好きな水遊びを自粛していた時期だったので、思いっ切り走れてDawn太もスッキリしたはず。駐車場に戻ってから、飼い主2人掛かりでDawn太の体中に付いたタネタネを取って、たっぷり冷たい水を飲んでから帰宅しました。

かぁ~さんの記事更新はこんな時期だけど
これも楽しかった夏の思い出の一つということで…。
登城日 2021年9月19日(日)|Dawn太 生後2,400日