旧赤谷線「歴史探勝の道」をゆく|新発田市
前記事でご紹介した「古代神殿の回廊のような写真が撮れる」と、今や若い世代にも人気になっている東赤谷連続洞門。その昔、このスノーシェッドの下を走っていたのは、赤谷鉱山の専用機関車でした。
開発、中止、再開発の繰り返しで、その背景には戦争があった時代の遺産。その赤谷鉱山とともに時代の波に翻弄されつつ、山深い東赤谷から新発田間を繋ぎ、地域の足となって活躍した小さなローカル線。今は無き赤谷線の歴史も併せて少し触れてきました。

旧国鉄 赤谷線
赤谷線は新潟県新発田市の新発田駅と東赤谷駅を結んでいた国鉄運営の鉄道路線です。
- 赤谷線(1922年~1984年)
- 新発田-東中学校前-五十公野-新江口-米倉-新山内-赤谷-東赤谷
歴史

日鉄鉱業赤谷鉱業所専用鉄道廃線跡をゆく|新発田市
先の記事で紹介した加治川治水ダムがある新発田市赤谷はかつて赤谷鉱山があった地で、治水ダムへの行き帰りに通る県道335号滝谷上赤谷線からも、当時の遺構が点々と残されているのを見ることができます ...
赤谷線は1922年(大正11年)、赤谷鉱山から鉱石を運び出すための鉄道「赤谷運鉱線」として開通しました。しかし、鉱石の需要が減少傾向にあったためその翌年には休業し、地元民からは「赤錆線」と呼ばれていたそうです。
第一次世界大戦後の不況のため、使用されることなく放置されていた赤谷線が復活したのは大正末期になってからのこと。地元の市長や代議士たちが当時の鉄道大臣に掛け合い、地元民のために赤谷運鉱線を利用したい旨を申し出るとそれが受理され、路線敷は鉄道省に無償譲渡されて1925年(大正14年)11月に新発田-赤谷間の国鉄赤谷線が誕生します。
昭和に入って第二次世界大戦がはじまるとともに、再び鉄鉱石の需要が高まってきます。赤谷鉱山も再稼働となり、1941年(昭和16年)赤谷線は新たに東赤谷まで延線されて全線開通。東赤谷駅には鉱山からの積み出し施設が設置され、旅客と並行しながら鉱石を運ぶ鉄道としても活躍します。
しかし戦後になると赤谷鉱山の生産高も減少の道をたどり、それとともに赤谷線も赤字路線へと転落。国鉄時代の赤字線第一次対象線のひとつとなり、1984年(昭和58年)に廃止を迎えることとなります。
現在、線路や設備などは一部を除いて撤去され、全線18.9kmのうち13.3kmの道のりにサイクリングロード「歴史探勝の道」が整備されており、豊かな景色を眺めながらの散歩やジョギング、サイクリングを楽しむことができます。
国鉄赤谷線 赤谷駅跡
1925年(大正14年)11月20日開業-1984年(昭和59年)4月1日廃止

全線のなかで唯一駅舎が残され、当時の面影を感じられる木造の赤谷駅。

現在は集会所として利用されています。

ホームや線路は新潟県道14号新発田津川線になっています。

赤谷線が廃止されたあとは、並行してあった県道14号を経由する新潟交通の路線バスが役目を担っています。

赤谷駅舎跡付近からは、内の倉ダムの堤体が思うよりも間近に見えていて驚きでした。
古の境を知る赤谷の駅

赤谷駅ではなく、赤谷
廃線周辺地であり、県道14号に面してあるので目につきやすいですが、赤谷山荘という個人所有の展示物です。これを見て赤谷線の廃線路に興味を持つ人もあるようで(私もか…)、ここにあって重要な役割をしている物かも知れません。

注目して欲しいのはこの駅名標。向かって右手側は会津藩、左側は新発田藩と書かれています。
この列車が置かれている場所がほぼほぼ会津藩領の端っこで、このまま県道14号を100mちょっと行ったあたりに架かる境橋で境川を渡った先が新発田藩領になるようです。
新発田藩へと続く会津街道
江戸時代の頃、現在の阿賀町一帯や新発田市の一部は会津藩領であり、津川は会津の西の玄関口と呼ばれていました。会津藩と新発田藩を結んだ重要な道が会津街道です。
江戸時代の初め頃に会津藩によって整備されたと伝わる会津街道は、会津若松から鳥居峠を越えて津川に至り、阿賀野川を渡って北に向かい、さらに諏訪峠から行地、綱木、赤谷を経て新発田に至る全長およそ92kmの道のりのことです。会津藩では「越後街道」と呼ばれ、越後側では「会津街道」や、新発田藩だけでなく村上藩の殿様も参勤交代に利用したことから「殿様街道」とも呼ばれていました。
1868年(慶応4年)7月から8月にかけて、赤谷周辺の角石原、入鳥越、猪ノ原などで、会津軍と西軍の激しい戦いが行われています。1868年(明治元年)9月21日、赤谷は会津戦争において会津藩が新政府軍に降伏し、領地を没収されて越後府の管轄となります。また東蒲原郡は1886年(明治19年)5月22日に政府の閣議決定によって福島県から新潟県に編入されています。いずれもそれまでは会津藩領で、道路の整備などは会津藩・福島県が行っていました。
県道14号沿いには、會津藩戦死碑や角石原戦跡の碑などがみられます。
展示されている車両について
ここに置かれている車両、運ばれた当初は真っ黒な車体をしていたそうです。きっと山荘や地域の目玉展示にしようと設置され、その後色を塗り替え、このような可愛らしいイラストが描かれたのではないかと推測します。
車体から読み取れる文字はヨ5138。国鉄ヨ5000形貨車のことでしょうか?
少し調べてみましたが、旧赤谷線では開業以来省有貨車を使用しており、1949年(昭和24年)に国鉄から払い下げられた貨物車はトム5000形(8050、8547)の2両だったらしいので、旧赤谷線で実際に使用されていた貨車なのかは不明でした。
いずれにせよ、今は無き赤谷線を彷彿とさせるアイテムの一つであることは確かです。
廃線サイクリングロードのスタート・ゴール地点である中々山公園

次に訪れたのは中々山公園。旧赤谷線の廃線敷きを利用したサイクリングロード「歴史探勝の道」の赤谷側の出発点であり、新発田側からのゴール地点です。

旧赤谷線の全長は新発田駅から東赤谷駅まで18.9kmありますが、そのうちの13.3kmがサイクリングロードとして整備されています。(新発田-中々山間が12.3km、五十公野公園からスタートした場合が全長の13.3kmになります。)

サイクリングだけでなく
徒歩でも車移動でも歴史探訪できるよ
国鉄赤谷線 米倉駅跡
1925年(大正14年)11月20日開業-1984年(昭和59年)4月1日廃止

並木の中にポツンと駅名標だけが残る米倉駅跡。

駅舎跡は公園になっていました。

公園の遊具はポケストップになっているよ

上りを見ても下りを見ても、気持ち良いほど真っすぐに伸びた廃線区間でした。

Dawn太と一緒に記念撮影していると、丁度新発田方向からヘッドライトを点けた自転車が一台、こちらに向かって走ってくるところでした。

そこに1人サイクリストがいるだけで、不思議と無いはずの線路が見えてくるような景色になりますね。
会津街道 米倉宿

再び時代は江戸の頃まで遡り、こちらは県道14号沿いの米倉ふれあいロードパークに立つ会津街道米倉宿の案内板です。
境川を渡って新発田藩領となる米倉地区はその昔、お隣の山内宿とともに会津街道の宿場町として栄えたところです。
時の新発田藩は積極的に会津につながる米倉・山内の宿場町の設置を行い、1677年(延宝5年)には散在していた村々を寄せ集めて宿場町を設けます。新発田藩と会津藩との藩境に隣接していたことで、山内宿には新発田藩の口留め番所が置かれ、往時は「桂の関」と呼ばれて人改めや荷物の改めなどが行われました。
ちなみに、赤谷地区の景勝清水が湧いている辺りに、会津藩の口留め番所が置かれていたようです。

新発田藩の宿場町は文人墨客や庶民の利用も多かったと伝わり、1814年(文化11年)峠越えをした十返舎一九は「あいづよりゑちごしばたまでいたるかいどうのうち、このとうげほどたかくなんぎなるはなし」と、諸国道中金の草鞋に記しています。また、「山の内というふに至れば、新発田よりの御番所あり、茶屋に案内を頼み御断り申して打ち通る」ともあり、山内の口留め番所が入る者は改めず、出て行く者だけを改めた様子も記されています。
豊年の貢とふれる雪国の ましろに見ゆる米倉のしゅく
十返舎一九著「金草鞋・越後街道の記」より

現在は、地元野菜や山菜などを販売する米倉ねむの木の市になっています。
おしまいに
このあと廃線跡サイクリングロードは長閑な田園風景の中を縫って、五十公野公園、新発田駅まで続きます。
この度は赤谷線廃線コースの半分も巡れませんでしたが、近代の歴史と新発田藩があった時代の歴史、どちらも一度に楽しめる新発田は魅力的で素敵なところだと感じました。またいつか、歴史の続きを巡ってみたいと思います。
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