有明山将軍塚古墳と科野のムラ|【信州千曲市】森将軍塚古墳周辺地にて

先に訪れた長野県下最大級の前方後円墳「森将軍塚古墳」一帯は歴史公園となり、その麓には出土品などが展示されている「森将軍塚古墳館」や、古墳時代中頃の「ムラ」が復元されています。
また、森将軍塚古墳が築かれている丘陵を数百m上ったところ(写真右の山中)には、また別の前方後円墳「有明山将軍塚古墳」があり、森将軍塚古墳と同じく「埴科古墳群」のひとつであるので、そちらも合わせて見学してきました。
森将軍塚古墳の続編としてお読みください。

歴史も山歩きも両方たのしめる千曲市の史跡「森将軍塚古墳」を訪ねました|長野県
そこに「山」があるから登りたくなる。そこに「歴史」があるから訪ねたくなる 。...
史跡 有明山将軍塚古墳
善光寺平(長野盆地)には「将軍塚」と呼ばれる古墳が11基ほどあり、有明山に葬られた「偉い人のお墓」という意味で「有明山将軍塚古墳」の名で呼ばれています。
有明山将軍塚古墳は、森将軍塚古墳のある尾根の上部(有明山から北西に延びる尾根上)に6世紀初め頃に築かれた、全長36.5mの前方後円墳です。この時代になりますと、善光寺平では前方後円墳の規模が徐々に小さくなり、やがて造られなくなってしまいます。善光寺平では、最後に造られた前方後円墳の一つと考えられています。
昭和48年(1973年)10月24日市指定史跡に、平成19年(2007年)2月7日国指定史跡になっています。また、平成11年(1999年)に範囲確認調査が実施されています。

森将軍塚古墳上から望む有明山将軍塚古墳方向の写真です。
標高490m地点にある森将軍塚古墳から、同丘陵をさらに300m(比高およそ50m)ほど上った場所に有明山将軍塚古墳があります。

向かう山道の途中、木々の切れ間から善光寺平が望めます。

僅かに目線を動かし見える「倉科将軍塚古墳」「土口将軍塚古墳」方面
雑木林の中にひっそりとある有明山将軍塚古墳

前方側から全景(全長36.5m)
標高652mの有明山に至る尾根の途中、標高544m地点にひっそりとある有明山将軍塚古墳。
有明山へと向かう山道が左に直角カーブしている右側にあるため、危うく見落としてしまうところでした(汗)。7~8分ばかり山歩きをした頃、有明山将軍塚古墳に到着しました。

有明山将軍塚古墳(前方後円墳)全長36.5m / 後円頂部直径10m、高さ7m / 前方幅10m、長さ16.5m、高さ1m(平成11年/1999年に行われた範囲確認調査での測量数値)
有明山将軍塚古墳の墳丘には葺石が積まれ、前方部東側と後円部には段築が設けられており、埴輪は並べられていませんでした。
埋葬施設については、墳丘の主軸に合わせた長さ6mの立派な竪穴式石室が残されていました。副葬品には鏡をはじめ、勾玉や管玉などと一緒に、小札革綴かぶと、矢じり、斧などの鉄器が僅かに発見されていますが、その殆どは盗掘により持ち去られていました。

有明山将軍塚古墳前方部(幅10m、長さ16.5m、高さ1m)
葺石の名残りのような石積みが多少残っているようです。

有明山将軍塚古墳後円部先端より(直径10m、高さ7m)
埋葬施設である竪穴式石室があった後円部。現在窪んでいる場所が、埋め戻された長さ6mの石室部であると思われます。有明山の頂の方向に主の頭を向けて埋葬されたのだと推測します。

有明山将軍塚古墳の前方部に向き、右手側は森将軍塚古墳と同じく善光寺平が望め、左手側からはJR屋代駅など更埴の町並が見下せる場所でした。
墳丘上は木が切られていますが、周囲の整備は手付かずといったところ。調査だけが済み埋め戻されただけの姿なので、1,500年以上もの風雪にさらされて自然と削られてしまった墳丘も、往時はもう少し大きさがあったのかも知れません。
こちらにももう少し手が入り、森将軍塚古墳同様、多くの人が見学できる歴史発見の場になってくれたらと思います。

墳丘の奥に延びる山道をあと600m進めば、有明山の頂に到着です。ところが、生憎この日は倒木があって立ち入り禁止。…それよりも、ここを出ようとした頃から急激に空模様が怪しくなりはじめ、早めに下山しないと雨が落ちてきそうで!(これから森将軍塚古墳の見学という時でしたのでなおのこと。)
森将軍塚古墳の山麓に復元された屋代清水遺跡
屋代清水遺跡は、森将軍塚古墳の山麓にある長野県立歴史館の地下から発掘された遺跡です。発掘調査の結果、縄文時代後期(約3,500年前)から弥生時代、古墳時代と集落が営まれ、それ以降は水田として利用されてきました。
公園内にある「科野のムラ」は、屋代清水遺跡で発掘された古墳時代中頃(森将軍塚古墳が造られた頃)の建物群を元に復元されたものです。その当時のムラや田んぼなどの遺構は、現在の屋代田んぼや屋代・雨宮の住宅地の地下に埋まっています。

山へ入る際はこんなに良いお天気でした。この様子を横目に見ながら、先に二つの古墳へと。戻って来た時には今にも雨が降り出しそうな天気で、写真に統一感がなくなってしまいスイマセン(汗)。
科野のムラ

「ムラ」には発掘された竪穴式住居、物置小屋や倉庫をはじめ、ムラの儀式の場などが復元されています。また、ムラの中央を流れる川や田んぼ、畑などもつくられ、往時の人々の暮らしを垣間見ることができます。

「黒米って稲の時から真っ黒なんだ!」と、ちょっと感心しながら見ていたのは、再現されたムラの田んぼ。赤米、黒米をはじめ8種類の古代米が栽培されていました。

▲こちらの畑では「きび」が、▼こちらの畑では「えごま」が栽培されていました。

あと、ムラの中を歩いていると、実の成る木々も多く植えられていたのが印象的でした。

ムラに復元された、人びとが居住した竪穴住居

一部、中まで入って見学できる住居もあったのでお邪魔してみました。定期的に燻すようで、天井は真っ黒に煤けていました。


物置に使われたとみられる小屋

ムラに復元された高床倉庫。一度に5人まで入れます。

収穫物を貯蔵する場所だったようです。
学びの仕上げは森将軍塚古墳館で

古墳やムラを巡った最後は、森将軍塚古墳が見える場所にある「森将軍塚古墳館」で、歴史の仕上げがオススメです。

合子形埴輪のシンボル展示
館内では、森将軍塚古墳から出土した副葬品や埴輪をはじめ、千曲市内の遺跡からの出土品も交え、パネル展示、映像などで分かりやすい解説がされています。一部の権力者のみ持てたという三角縁神獣鏡も、ここに展示されていました。私はCGで再現されていた、森将軍塚古墳を造る工程映像が興味深かったです。
何といってもメインは、日本最大規模の竪穴式石室の原寸展示

メイン展示室の中央にあるのは、森将軍塚古墳の後円部に埋まって今は見ることのできない、国内最大級といわれる竪穴式石室の実物大精密模型です。発掘調査時に製作した原寸大模型で、実際に古墳の上に立って見ているような展示がされているのが心憎いです。

そして何と!サブ展示室からは、この竪穴式石室実物大模型の大きさがより一層わかるよう、自分が半分石室に入ってしまったような錯覚で見学することができるのです。
竪穴式石室は長さ7.6m、幅2m、高さ2.3m。日本一大きな竪穴式石室がすぐ目の前に!古墳を見学して感動した人には是非、その大きさも実感してみて欲しいと思いました。物言わぬ石室の大きさからも、科野のクニの王の権力の大きさを感じられるかも知れません。

赤く塗られた石室
森将軍塚古墳の竪穴式石室の石積みの一部を、築造当時の姿に原寸大で再現してみせた展示です。石積みの様子や、実際の石室の色合いが実感できます。
板状の石(石英閃緑岩)は、古墳から3㎞ほど離れた倉科地籍の山から運ばれたものです。
石室の内部はベンガラ(参加第二鉄)と呼ばれる顔料で真っ赤に塗られていました。棺の周りの床には、この地には無くて貴重品であった朱(赤色硫化水銀:別名を「賢者の石」といいますね)がまかれていたそうです。
おしまいに
実は、私たち親は初めてだった森将軍塚古墳は、末っ娘が小学校時代の修学旅行で訪れたことのあった場所。当時は幼くて意味も分からず、JKになって私たち親だけ見学してきた話を聞き、また再び行ってみたいといっている場所です。
周辺地にはまだまだ数多くの古墳が点在しているので、あんずを買いに来る度に1つ1つ巡るのも楽しそうですし、すぐ近くには長野県立歴史館もあるので、そちらでも歴史の勉強ができそうです。
森将軍塚古墳館を出る頃には吹く風も冷たく、雨も本格的になってきました。あんずに歴史にと、丸一日楽しい信州旅でした。
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