歴史も山歩きも両方たのしめる千曲市の史跡「森将軍塚古墳」を訪ねました|長野県
そこに「山」があるから登りたくなる。そこに「歴史」があるから訪ねたくなる。
この日、あんずを購入するために訪れた「あんずの里物産館」の駐車場目の前に見つけてしまい、これは歴史に呼ばれているに違いない(笑)と、あんず旅の締め括りに、史跡「埴科古墳群」の一つである「森将軍塚古墳」に立ち寄ってみました。

善光寺平(長野盆地)には「将軍塚」と呼ばれる古墳が11基ほどあるそうです。約1,600年前に築かれた長野県内最古の森将軍塚古墳は、「森地籍」にある「偉い人のお墓」という意味で、古くから「森の将軍塚」と呼ばれてきたものです。
森将軍塚古墳まで歩いてみよう
周辺地は史跡公園として整備されています。見えている「科野のムラ」は、隣接してある長野県立歴史館の地下から発見された古墳時代中頃のムラを復元したものです。山麓はもとより、古墳よりさらに上方にも歴史が広がるという、歴史好きにはたまらない場所になっていました。

森将軍塚古墳は標高490m地点にあり、「森将軍塚古墳館」の駐車場から距離にして1㎞程度。ゆっくり歩いても20分程度で着きますので、軽装で楽しめ、適度な山歩きになると思います。

一般車両は通行不可。森将軍塚古墳館から古墳見学バスが出ますので、足に自信がない人は200円を払ってバスに乗りましょう。

「科野のムラ」を横目に過ぎると間もなく、道は二手に分かれます。
右手は古墳バスも通る舗装された「古代の道」。左手は山道そのままの「森の道」。

どちらから行っても間違いなく墳頂に到達しますが、▲案内板の文字があったので用心のため、行きは多くの人が歩いている「古代の道」を選択しました。

確かこの日の気温は28℃だったかと…。飼い主たちは定期的にできている大きな木陰に入れば通る風も心地よかったですが、舗装された道はDawn太には暑過ぎて(汗)。オシッコ処理のために持参した水で洋服を濡らしながら歩きました。(白い服が濡れて透けたらなんだかなぁ~:笑)
ペットにも優しい山で、犬はリードをつけ、糞尿の処理をキチンとすれば一緒に登山してもOKです。

森将軍塚古墳館脇を出発 → 古代の道 → 森将軍塚古墳見晴台 → (地図には無いが)有明山将軍塚古墳 → 森将軍塚古墳見学 → 二号墳 → 森の小道 → 科野のムラ見学 → 森将軍塚古墳館見学
この日はこんなルートを通って見学してきました。
自然豊かな散策路
案内板や水飲み場も整備された散策路。定期的に「○○広場」と名付けられた場所が設けられていました。

あんず広場には、たわわに実ったあんずの姿も

シモツケが咲き

コミスジたちが乱舞し

そんな自然豊かな山道なので、やっぱりキケンも潜みます。
森将軍塚古墳を見学するにあたり、▼こんな注意書きが設けられていました。
【見学上の注意】- 雷が鳴りだしたらすぐに避難してください。
- マムシ・ハチ・イノシシには気を付けてください。
- 埴輪は焼物ですので石を投げないでください。
あと、無理せず自分のペースでゆっくりと!ですね。

休みなしで歩き続けて20分。古墳バスの停留所がある「かもしか広場」を過ぎてすぐ、古墳碑が置かれ、墳頂部が一望できる見晴台に到着!

一気に吹き出した汗に、とおる風の心地よいこと。

実は私、この歳になって初めて実物を目の当たりにした前方後円墳が、この「森将軍塚古墳」でした。まずはそのスケールの大きさにビックリ。そして、絵に描いたような見事な姿!しかも見晴らしが良過ぎる。
同じようにこの辺りから撮影された写真が、小学6年生の社会科の教科書にも採用されているといいます。

へぇ~、そうなんだ!
史跡 森将軍塚古墳
前方後円墳に代表される古墳は4世紀にはいる頃、近畿地方の有力者(大和王権)たちによって築かれはじめたと考えられています。古墳の形や大きさは、大和王権と各地の有力者たちとの関係の深さと力の大きさなどによって決まるといわれています。
約1,600年前に築かれた前方後円墳「森将軍塚古墳」は、長野県下最古(4世紀代)かつ最大であり「科野のクニ」最初の王の墓といわれています。

完全復元された森将軍塚古墳と157個並んだ埴輪
善光寺平を望む標高500mの大穴山に築かれた全長100mの古墳は、丘陵の尾根をうまく利用して形づくられており、「く」の字に折れ曲がり、少しイビツな円墳が特徴的です。後円部の竪穴式石室(長さ8m、幅2m)は日本最大級のもので、 鉄製の刀や鎌、三角縁神獣鏡、ヒスイの勾玉などの副葬品が発見されています。
森将軍塚古墳は、昭和46年(1971年)3月16日に国の史跡に指定されています。また、昭和56年度から平成3年度までの11年の歳月をかけ、工費5億円を費やして保存整備を行い、築かれた当初と同じ材料・工法により、古墳の形や大きさもそのままに復元がなされています。現在ある埴輪についても、調査結果をもとに、同じ大きさ・形に焼いた157個が並べられています。
古墳の構造と復元

古墳は全て人力により、有明山の尾根を削り、土を盛り、石を積み上げて造られたものです。石室の平らな石(石英閃緑岩)は倉科地区から、玉砂利は千曲川から、古墳に積まれた石(石英斑岩)はこの山から集めたものです。
古墳の表面には「葺石」と呼ばれる約8万個の石が積まれています。今は葺石の下に埋まって見ることができませんが、森将軍塚古墳を築いた人びとは、楕円形に近く変形していた後円部にさらに手を加え、墳丘の裾に石を弧状に敷き詰めた「貼石帯(はりいしたい)」を設けて、見掛けをより円形に近づくよう整えています。
また、やせ尾根の上に墳丘を築くために、盛土が崩れ落ちないように石垣によって縦横にブロックをつくり、そのブロックごとに土を盛って古墳を造っているのが大きな特徴です。

【参考】
- 古墳築造:すべて人力で築かれました。(1日約100人で約550日)
- 発掘調査:1日約20人で約500日
- 復元工事:クレーンやトラックなど重機が使われました。(1日約10人で約300日)
森将軍塚古墳「前方部」

前方部は、古墳の主が眠る後円部にいたる通路、あるいは儀式の場ではないかと考えられています。
森将軍塚古墳の前方部は後円部と同じように、千曲川から運ばれたと思われる砂利が敷き詰められ、埴輪が立ち並んだ広さのあるものです。後に設けられた長さ2~3mの小さな竪穴式石室2基をはじめ、組合式箱形石棺や埴輪棺などの埋葬施設がみられます。

前方部に造られた二つの石室

前方部にある2号石室跡

前方部にある3号石室跡
前方部から見つかった竪穴式石室2基のうち、後円墳に近い位置にある3号石室からは、剣・ガラス玉・碧玉製管玉などが発見され、管玉を連ねた首飾りを下げ、両手首にはガラス玉と管玉を用いた腕飾りをはめた状態で埋葬されていたと考えられています。残された骨や歯などから、埋葬されていたのは40歳代の男性であることもわかりました。

後円部から見下ろす前方部
日本最大級の竪穴式石室を有する後円部

一段高い場所に設けられた後円部の中央には、長大な竪穴式石室が設けられ、森将軍塚古墳の主が埋葬されていました。
竪穴式石室とは、棺を納めた後にさらに側壁を積み上げ、大きな石などで蓋をして埋め戻す棺の保護施設のことで、古墳時代初めの頃から5世紀代まで用いられています。

森将軍塚古墳の場合は、「墓壙(ぼこう)」と呼ばれる二重の石垣で囲まれた長さ15m、幅 9.3m、深さ 2.8mの大きな穴の中に築かれ、石室内には遺体を入れる木棺が納められていました。竪穴式石室は長さ7.6m、幅2m、高さ2.3mの特に大形なもので、日本最大級の規模と推測されています。床面の幅が特に広いのが特徴で、墳頂から石室の底までは3.5mほどもあり、手厚く埋葬された様子を伺い知ることができます。
副葬品には鏡や剣・刀・勾玉・管玉などが発見されています。一緒に発見された三角縁神獣鏡は、長野県下では唯一といわれるもの。大和王権と特に関係が深かった有力者に限って持ったものといわれており、かなりの人物が科野のムラの王であったのだろうと思われます。

後円部中央にある石で囲まれたところが、主が埋葬された石室があった位置です。Dawn太が立つこの向きで埋葬されていました。
森将軍塚古墳の主が治めていた正確な範囲はわかっていませんが、千曲川右岸(屋代・埴生・雨宮・倉科・森地域)を中心として、古墳から一望する善光寺平をはじめ、科野のクニ全体を治めていたと考えられています。
この地域にある前方後円墳の分布から ①森将軍塚古墳 → ②川柳将軍塚古墳 → ③④土口・倉科将軍古墳 → ⑤中郷古墳 → ⑥有明山将軍塚古墳 → ⑦腰村1号古墳 …と、科野のクニの王権は千曲川をはさみ、次第に移り変わったと考えられます。
この場に立てば自ずと、科野のクニの人たちがイビツな形のやせ尾根に苦労してまで、偉大な王の墓をどうしてもここに築きたかったのか?その理由がちょっとわかった気がしました。
墳頂に見られる古墳群

実は墳頂部には王の古墳(森将軍塚古墳)を取り巻くように、直径3mから20mほどの大きさをした小円墳が13基も発見されています。これらの古墳は、5世紀はじめ頃から7世紀後半頃までの間に次々に造られたものだと分かっています。古墳は採石によって削られてしまった尾根部にもみられ、往時はもっと多くの古墳があったと考えられています。これらの古墳には、森将軍塚古墳に眠る王と関係の深い人たち(親族や有力者?)が埋葬されているものと思われます。

森将軍塚古墳の後円部から見る古墳群の様子
最初に森将軍塚古墳を眺めた見晴らし場も小円墳の一つなら、見えている尾根の最奥の2号墳まで続く、いくつもの盛り上がりもまた小円墳です。
横穴式石室の3号墳

3号墳は6世紀後半の頃、森将軍塚古墳の平野側のくびれ部に造られた直径6mの円墳です。長さ4.6m、幅1m、高さ1mの横穴式石室を設けており、6世紀後半から7世紀前半にかけて3回の埋葬がおこなわれています。

3号墳
6世紀になると、この地方でも竪穴式石室から何度も埋葬することのできる出入口つきの横穴式石室に変わります。この頃になると善光寺平では、もう巨大な前方後円墳は造られなくなり、古墳時代後期になるとその中心は伊那谷(飯田市周辺)へと移ります。理由としては、当時大きな政治的変動があったからと考えられています。
この頃になると馬の利用が本格化したとみえ、石室内からは馬具をはじめ、矢じりや玉などの副葬品が見つかっています。横穴式石室や馬具の副葬などは、古墳時代後期の古墳の特徴の一つです。
古墳に並ぶ埴輪

前方部に並ぶ埴輪
壺形、朝顔形、円筒埴輪、異形埴輪など、たくさんの埴輪が古墳を飾っています。現在、古墳には27種類157個の埴輪のレプリカが並んでいます。
森将軍塚古墳の埴輪は大型であること、「透孔(すかしあな)」と呼ぶ三角形の孔がたくさんあけられていること、板で縦方向になでつけた跡(はけめ)があること、ベンガラで赤く塗られていることなどの特徴がみられます。置かれている埴輪は一つ一つの形や作り方が異なっており、埴輪作り専門の技術者がいたのではなく、たくさんの人びとの手によって作られたものであるためと考えられています。

後円部の先端に並んだ埴輪
森将軍塚古墳の後円部の上段には後方への台形状の張り出し部が設けられ、埴輪が二重に配置されています。発見された土器から、ここでも儀式が行われていたと考えられています。

3号墳とは反対側、前方部のくびれ部から出土した4号埴輪棺の復元
後に埴輪を棺に再利用した埴輪棺が造られ、4号埴輪棺の付近を中心に12基発見されています。組合式箱形石棺などと共に5世紀代に造られた小さなお墓のひとつです。

小円墳群を眺めながら2号墳へ

小円墳越しに見る森将軍塚古墳(後円墳側)
奥に見える山の途中に、後の王権を握ったとされる有明山将軍塚古墳があります。(これはまた後ほど)

これも発掘調査のマーク跡?後円部の先端の裾でも儀式が行われていたそうで、土器や匏形(ひさごがた)土製品が見つかっています。

6号墳付近。2号墳へ向かうやせ尾根伝いに小円墳群が続きます。
尾根の先端にある2号墳

森将軍塚古墳から200mほど離れ、尾根の先端部に位置する2号墳。
2号墳は、5世紀初め頃に造られた直径20mの円墳で、小円墳群の中で一番大きく、しかも最初に造られています。墳丘の裾には、円筒埴輪を中心に朝顔形埴輪などが1m間隔で並べられ、たくさんの土器が発見されています。墳頂には、箱状に石を組み合わせた長さ5mほどの石棺があり、40歳ぐらいの男女二人が埋葬されていました。
おしまいに
緑で覆われた古墳のイメージが強かった私からすると、パッと目に飛び込んでくる石積みが印象的過ぎて、尾根に連なる小円墳群と合わせ、まるで中世の連郭式山城を連想させるような森将軍塚古墳でした。1,600年以上も前に、細長い土地にできるだけ円に近い古墳を築こうとするため、科野のクニの人々が創意工夫し、実現させた高い土木技術にも驚きでした。
また、自分の古墳の周囲にこれだけ多くの古墳群を造らせてしまうほどのカリスマ性を持つ科野のクニの初代王といわれる人物。その権力の大きさも垣間見え、ミステリアスで興味深かったです。
2号墳を見学した後は、イノシシにもマムシにも遭遇することなく、ただただ自然の山道が続く森の小道を下って麓まで戻りました。見学の注意にもあったように、山の天気は変わり易いようで、写真の最初と最後で天気も全く違いましたが、雨にも雷にも遭うことなく、楽しい山歩きと歴史探訪になりました。
次回は森将軍塚古墳の上と下にも広がる歴史のお話など。
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