白河小峰城2018 ~Dawn太と行く名城の旅~

Byそふぃあ

----- Monday, September 24, 2018 ----------  Dawn太(生後1,309日)
いつかDawn太を連れ、再び訪ねてみたかった、日本百名城のひとつ白河小峰城。

私たち飼い主にとっても「天地人」の旅以来になるので、簑沢彼岸花公園の曼殊沙華の群生地と同じく、9年ぶりの訪問になります。

白河小峰城
この日の天気は次第に雨になるという予報でしたが、雲が多いながらも時々小雨が降る程度で、散策にも支障にならずにいてくれました。

白河小峰城
小峰城は、南北朝期の武将である結城親朝によって興国年間(1340~46年)に築城されたのが城郭としての始まり。以後、白河結城氏の有力な一族である小峰氏の居城でしたが、永正年間(1504~20年)頃には白河結城氏の本城となっています。
現在にその名残りをとどめる近世城郭は、寛永4年(1627年)に初代白河藩主となった丹波長重が、幕命により寛永6年から同9年にかけて築城したものです。

上杉軍が家康の会津討伐に備え、前線基地としたのがこの小峰城。
我らが上杉ゆかりの城でもあります。

白河小峰城
大人の話はDawn太には難し過ぎるので、城については過去記事をご覧ください。
 ・白河小峰城 →
 ・三重櫓と二の丸 →

白河小峰城
▲城の大手虎口である清水門

白河小峰城
▲清水門脇の水濠

白河小峰城
この城の石垣の最大の特徴ともいえるのが、大手である清水門入って真正面に見える円を描く様に積まれた高石垣。

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▲2009年見学当時の高石垣

平成23年(2011年)3月11日に発生した東日本大震災により、震度6強に見舞われた白河の地。
本丸南面石垣が幅約45mにわたって崩落したのをはじめ、10ヶ所の石垣が崩壊してしまいました。

白河小峰城
以前の資料をもとに復元工事がなされ、平成27年(2015年)4月より、見学が中止されていた三重櫓と前御門の公開が再開されています。

白河小峰城
▲前御門(本丸櫓門)と三重櫓

白河小峰城
ここでポツポツと雨が降り出し、門前で記念撮影されていたご家族は、子どもさんを門下で雨宿りさせていました。

白河小峰城
▲本丸内より 前御門と三重櫓

白河小峰城
三重櫓は平成3年(1991年)に、前御門は平成6年(1994年)に、それぞれ古絵図を元に忠実に復元されています。

白河小峰城
再び陽が差してきて何よりでした。

白河小峰城
「一国一城令」以後の築城であるため、幕府への配慮もあり(!?)この三階櫓が天守の役目を成しました。

三階櫓の内部は、自由に見学できるようになっています。
鉄筋を使って再建されるケースが多い中、小峰城の三階櫓は木造で再建されているのも珍しいです。

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▲2009年訪問時の写真より

三階櫓の復元材料として利用されたのが、戊辰戦争の際に激戦区であった松並稲荷山の杉の大木(樹齢約400年)。
作業の際に幾つかの鉄砲の鉛玉や弾傷が発見され、それをそのまま通し柱や床板、腰板として加工してあり、生々しい痕跡を見ることが出来ます。

白河小峰城
当然のことながら建物内はペットの入場は禁止。Dawn太は旦那に預けて見学していました。

三階櫓の連子窓から、下にいるDawn太の名前を呼びながら撮影してみたのですが。。。
声はすれども姿見えず

白河小峰城
内から外は良く見えても、外からは内部を見透かされない造りになっているので、Dawn太は私の姿も見つけることが出来ませんでした。

白河小峰城
代わって、旦那が三階櫓の見学中!

白河小峰城
震災の影響はこんなところにも。。。

白河小峰城
以前来た時には土塁上も歩いて見学でき、富士見櫓跡、雪見櫓跡にも行けたのですが、今は立ち入りが制限されていました。
また、両櫓下にある帯郭に造られていたバラ園も震災の影響で土砂が流れ込んでしまい、以後、バラ園の再建は無い見込みのようです。

白河小峰城
平成30年(2018年)は明治元年(1868年)から起算して満150年の節目年に当たり、白河集古苑(資料館)では、特別企画展「戊辰戦争と白河」が開催されていました。

慶応元年(1865年)時の白河藩主で老中であった阿部正外(まさとう)が外交問題で失脚し、翌年には隠居させられ、跡目を継いだ正静は棚倉に移されました。
白河にはその後、新しい大名が任命されず、藩は消滅し、藩領は幕府領となってしまいます。
迎える慶応4年(1868年)1月に鳥羽・伏見の戦いが起き、戊辰戦争が始まると、新政府に反発した奥羽・越後の諸藩は奥羽越列藩同盟を結びます。
藩主不在だった白河は、古くから交通の要衝であったが故に意図せず戦争に巻き込まれ、これが「白河口の戦い」と呼ばれるものに発展します。

白河口の攻防戦は、会津藩・仙台藩の両藩を主力とした奥羽列藩同盟軍と薩摩藩、長州藩を主力とした新政府軍との間で、およそ100日間にもわたって繰り広げられ、両軍と白河の庶民を含め合わせて1,000名あまりの戦死者が出るという、東北・戊辰戦争の中でも最大の激戦となりました。
特に、慶応4年(1868年)5月1日の白河小峰城を巡る攻防戦は両軍熾烈を極める戦いとなり、白河小峰城の陥落は同盟軍に大変な衝撃を与えます。

同盟軍側の戦死者は半数以上を占め、所属の藩だけでなく名前すら分からないものも多く、白河の市内には戦死者の供養碑や墓が100基以上も存在すること。当時の生々しい手紙から見えてくる様子など、展示物を拝見しつつ、解説員の説明を受けつつ、古を知る良い時間となりました。


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