長岡城址|長岡
2009年12月12日
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長岡城
慶長3年(1598年)上杉景勝の会津移封に伴い、坂戸城に入部した堀直竒。その堀直竒が築城を始めた城が長岡城でした。長岡の地名の由来は、信濃川左岸から見ると長い丘陵があったからといいます。堀直竒と同じく、上杉の会津移封に伴い春日山城に入部したのが堀秀治でした。その、秀治の弟・親良が中越の要衝蔵王堂城へ入部して来ますが、親良の隠退後、その子鶴千代が蔵王堂城主となると、直竒はその後見役となり蔵王堂・坂戸、両城の領地を支配しました。
慶長10年(1605年)信濃川による川欠けのために城を長岡の地に移す決意を固め、新城の縄張りを開始しました。翌11年の鶴千代の死後も直竒は蔵王に留まりましたが、忠俊の頚城郡福島城築城の手伝いに忙殺され、長岡の築城は中断されました。
慶長15年(1610年)直竒は秀治の跡を継いだ忠俊と兄・直清のざん言によって突如国外に追放されてしまいます。その後、直竒は駿府で家康に仕え、大阪冬・夏の陣で手柄を立て、元和2年(1616年)には8万石蔵王堂城主として故地へ返り咲き、長岡築城と城下町および新潟町の建設に努めます。しかし、わずか2年で村上城主に転封されてしまいます。替わって、長岡城には徳川譜代の牧野忠成が7万4千石で入封し、堀氏から受け継ぐ形で長岡城を完成させ、城下町を整備しました。以後、長岡藩は牧野氏13代で幕末を迎えることになります。
長岡城は戊辰戦争により焼失し、明治31年(1989年)には城跡に鉄道が敷かれ、長岡駅が出来ました。

長岡城は、現在のJR長岡駅付近を本丸とする平城で、兜城または浮島城と呼ばれていました。本丸の角櫓の一つに御三階と呼ばれる櫓があり、天守閣の役目をなし、城のシンボルとしてそびえていました。しかし、長岡城は戊辰戦争(1868年)で焼失したのちに廃城となり、今は昔の面影を偲ばせるものがありません。
駅前にある城址碑


城址碑の近くには、長岡の偉人達を紹介したパネルがあります。その左上部分に、長岡城を築城した堀直竒の名前が見えます。

長岡城元旦年賀登城の図

長岡城は、城の西方を流れる信濃川と、周囲の深田を天然の要害としています。
本丸の西側に二ノ丸、東側に詰ノ丸、これらの西、北、南の三方を守るように三ノ丸が囲んだ平城でした。
駅を背に進むと、進行方向左手に「城内稲荷神社」があり、その片隅には「長岡城二の丸跡」の石碑があります。


二の丸碑の後ろから見ると、駅ビルが見えます。

悠久山公園の高台に城をかたどった郷土資料館
全く面影をなくしてしまった長岡城を偲び、昭和43年、悠久山公園の高台に城をかたどった郷土資料館を完成させました。手前から角櫓、走り櫓、天守閣です。

資料館天守閣は、長岡城の御三階をモチーフに造られたといいます。

資料館の中では、長岡を代表する人物の資料が展示されています。入口入ってすぐには、長岡城築城者である堀直竒の座像もありました。また、雪国の昔の生活の様子なども見ることが出来ます。展望台からは、長岡の市街地や越後平野が一望出来ます。
公園内、資料館近くに建つ河井継之助の石碑


長岡藩上席家老の軍事総督。幕末の長岡藩を革命し、理財・行政などに才をふるった人物です。
北越戊辰戦争では、長岡藩兵を率いて、多勢の西軍を相手に縦横無尽に戦い、その時の負傷がもとで慶応4年(1868年)8月16日会津塩沢にて42歳で亡くなっています。
長岡藩の歴史をたどるのも面白そうです。
登城日:2009年11月22日
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