剣ヶ峰城址(加茂要害山城)|加茂
2010年04月14日
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剣ヶ峰城址散策
加茂山公園のリス園をあとにし、ちびが遊ぶという大型スラーダーへと向かいます。
リス園に向かう途中にあった案内看板で見た城址の文字が気になり、道の様子を見ながら登って行きますが、やはり、雰囲気が山城の道を改造して造られた様子がみられるように思いました。大型スライダーの滑り口まで着いたので、ここでちびは旦那に預け、私だけ単独で散策開始です。

大型スライダー滑り口の真向かいには見晴台があり、加茂の町が一望出来ます。その奥には越後平野、弥彦山、多宝山まで見えました。


さらに階段道を上って行くと、先に来た人たちが止まって看板を読んでいるようです。


爺杉

翁杉(じじすぎ)です。あまりにも大きくて、写真も上半分、下半分ずつになってしまいました。
加茂山を覆いつくす杉木立は加茂の特徴のひとつでもあります。
この杉木立は天然のものではなく、江戸時代初期の明暦2年(1656年)加茂の大庄屋 浅野三郎右衛門が加茂山一帯に大植林事業を興し、以来、元禄2年(1689年)に至る34年間に渡り多くの杉が植えられました。翁杉は樹齢1,000年。植林事業よりも以前にありました。
幹の太さは635㎝、大人5人が手をつないだ太さです。かつては青海神社の神木として翁杉一対の媼杉(ばばすぎ)と呼ばれる巨木がありましたが、昭和36年の第二室戸台風で倒れてしまいました。別名「オキナスギ」又は「千年杉」とも呼ばれ、ふるさと加茂カルタに「別天地・千年杉に夏の風」と謳われています。毎年春には注連縄が張り替えられ、加茂の長い歴史のなかでその雄大さを誇っています。加茂市指定文化財でもあります。
翁。。。の名前を聞いて、真っ先に思い出したのが、弥彦にあった婆々杉でした。残念ながら青海神社御神木の一つであった媼杉は無くなってしまいましたが、1,000年もの歴史を見続けてきた翁杉。当然、ここにあった城址の歴史も見て来た生き証人ということになりますね。
翁杉を過ぎ、道をさらに進んで行きます。少し行って道を右に折れると、道の右手には先程よりもさらに大きな見晴台がありました。

丁度子どもが遊んでいたので、私は上までは上がりませんでしたが、大型スライーダーが随分下に見え、ピンクの洋服を着たちびが再び滑り降りていく様子が見えました。
これだけの大きさの見晴台が造れるくらい、かなりの広さの削平地でした。この場所も、当時の大きな郭のひとつだったのでしょう。

ここから伸びる道は二手に分かれていました。城址跡へと向かう道は、さらに城址道の雰囲気がただよい、あっという間にタイムスリップして行きそうな気持ちになります。

右上写真の細道を抜けると、進行方向右手に大きな空堀が出現し、さらに期待感が高まります。

空堀を過ぎ、次に辿り着く付近が剣ヶ峰城があった場所であるようです。
城址碑などは無く、案内看板が1つ設置されているだけです。看板のある付近一帯が城であったと説明がありますが、どう見ても少し大きめの腰郭にしか見えません。多分、本郭は看板の上の一段高い部分では?と思いました。

加茂山要害城砦跡について
戦国時代から近世初めにかけての中規模な城砦です。標高106mの山頂付近が主郭部分で、その南側に一ヶ所、西側に二ヶ所の空堀が確認出来ます。近年までしばしば刀剣、薙刀などの武器や鏡、陶器、焼き米などが掘り出されています。山麓は根小屋と呼ばれ、当時の館のあったところです。上杉謙信公は越後を統治する必要から、各地に城砦を置いて連絡をとったといわれています。この山城もそのひとつであると思われ、元亀元年(1570年)上杉氏の家臣、早部甚 甫守が初めて築いたと伝えられています。その後、長尾加賀守、本庄備前守、宇佐美甚六、栗山大学、和田清八、小田切主膳、下越左京らの武将がこの城砦にいましたが、慶長3年(1598年)に上杉景勝の会津への国替えに伴って廃城となりました。天正8年(1586年)4月、上杉景勝は 本所秀綱を栃尾城に攻めて陥落させました。その時、家臣の菅名但馬守綱輔に書状を送り「賀茂山取結メ 今二張陣ノ由 大儀・・・」と慰労しています。ここにいう賀茂山は加茂要害城のことで、支城として、この看板の立っている辺り一帯が剣ヶ峰城であったろうと思われます。
加茂山城はその後、慶長5年(1600年)8月の越後一揆の頃再び登場して来ます。同年6月、徳川家康の会津出兵の際、上杉景勝に内通した越後の旧勢力が起こした一揆の時です。9月には、加茂城はじめ護摩堂城、雷(いかづち)城に一揆勢が立てこもり、8日に加茂の一揆勢3千4~500人が三条城を目指して大崎表まで進出しました。これを知った三条の堀直次は、討っ手を出し、首級150余りをあげて撃破しています。なおも抵抗を続けた加茂要害山城の一揆勢は、刈り入れ前の稲を荒らす「刈田狼藉」をしたことが記録に残されています。
現在、加茂要害山城の頂には神明社の小祠があり、北に護摩堂山城、南に姫ノ城を望むことが出来ます。姫ノ城からは大崎要害城が見え、三条城との連絡が取れたのだと思います。

次回は本丸へ
剣ヶ峰城址跡を目的に来たものの、ここは支城であり、さらにここから先には要害城砦があるということです。ここで帰るわけにも行かず、さらに距離がありそうなので旦那に連絡し、合流してからさらなる散策をすることにしました。
あ!足の具合、そんなに悪くは無いみたいです。
今回の話はここまで。要害城砦本丸へつづく。
訪城日:2010年4月4日(日)
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