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牧野忠成公墓所(普済寺)|長岡

2010年05月22日

戊辰戦争関連
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先日の、栖吉城址記事でも登場した、古志長尾氏の菩提寺である普済寺です。

謙信公の母親である虎御前は、古志長尾氏の娘である人物で、その居城・栖吉城は、虎御前のふるさとともいうべき城でありました。長尾氏の菩提寺である普済寺は、同時に長岡藩主であった牧野氏の菩提寺でもあるお寺です。

牧野忠成公墓所

長岡市という土地は、戊辰戦争当時“北越戦争”が繰り広げられた場所であり、ゆかりの地が数多く点在しているところでもあります。たまたま、栖吉城の関連地として立ち寄ったお寺でしたが、ここにも戊辰戦争関連の人たちが眠っているそうです。

歴史は繋がっている。またひとつ、戊辰戦争の歴史にも触れてみたいと思いました。

牧野忠成公墓所

これから山城潜入という前なのに、墓所までは急坂で、足場のあまりよくない石段を登って行く事になります。

牧野忠成公墓所

まだ最上段まで行かない一歩手前の平地に、少年隊士在銘碑がありました。
西郷勇英人(16歳)
三間豊蔵正英(18歳)
牧野金太郎正英(17歳)
以上3名の少年の名が刻まれていました。

牧野金太郎は河井継之助の妹・安子の長子で、慶応4年7月29日、十日町村で山県狂介隊との白兵戦の中で壮絶な討死をしたといいます。

牧野忠成公墓所

さらに石段を登り、最上段にあるのが長岡藩・初代藩主であった牧野忠成公の五輪塔です。

牧野忠成公墓所

初代長岡藩主・牧野右馬允忠成(うまのじょうただなり)公は藩治を図り、市区を整頓した創業の英主でありました。自ら簡素をもって衆を率い、長岡藩の基礎を築きました。承応3年(1654年)12月、江戸で74歳の生涯を閉じました。
遺骸は、「長岡を見守りたい」という本人の遺言によって、この裏山で荼毘に付され、葬られました。
墓前の左右に、殉死した渡部七郎左衛門正信と能勢兵衛門尉信重の墓があります。

訪問日:2010年4月25日(日)
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そふぃあ
Posted by そふぃあ
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