村上城と戊辰戦争
2010年10月03日
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藤基(ふじもと)神社
享保2年(1717年)創建という藤基神社です。こちらには村上の鮭産業に貢献した青砥武平治に関する石碑が建てられているというので出掛けてみましたが、戊辰戦争に関する石碑もありましたので、記事を分けてみました。

藤基神社社殿は総欅造りで、日光東照宮と同じ権現造りの建物です。嘉永2年(1849年)に、当時の工匠がその技を結集し、8年の歳月を費やして造り上げたものです。村上の生んだ工匠「有磯周斎」による、「かご彫り」とよばれる彫刻の傑作を各所に残しています。

ご祭神は、徳川家康の異母弟にあたり徳川家17士のひとりでもある村上藩の藩祖・内藤信成候、10代・内藤信敦候、11代・内藤信思候 を祀っています。八幡大神、誉田大神、火帯姫神、稲荷大神、倉稲魂神、秋葉大神、火産霊神、それに学問の神である菅原道真候を祀ってあります。
『種川碑』に並び、境内にはもう3つの石碑がありました。
【忠魂碑】
藤基神社の氏子でもある村上藩の旧士族が日清日露の戦争において、勇敢に戦って戦死した人の霊を祀った慰霊碑。
【村上藩士殉難の碑】
戊辰の役において、奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍と勇敢に戦い殉難した家老である鳥居三十郎 以下、村上藩士18名の名前を刻した追悼の碑。
【鳥居三十郎碑】
村上藩は奥羽越列藩同盟に加盟し新政府と戦いますが、藩論は交戦派 と 恭順派に二分され、対立のまま戊辰戦争の集結となりました。その時の家老で、29歳の若さで戊辰戦争の責任を一身に背負い自決した鳥居三十郎の追悼碑。今日の村上市を戦火から守った功績は偉大です。たまたま出合ったまた別の歴史。私自身知らないことが多いので、村上の戊辰戦争について少し調べてみました。
ここから先は自分の勉強のため、歴史関連サイトさんから参照させていただきまとめてみました。

■鳥居 三十郎■(天保12年|1841年~ 明治2年6月25日|1869年8月22日)
幕末期の越後村上藩の家老。名は和祚(まさよし)、幼名助九郎。三十郎は通称。戊辰戦争時には村上藩最年少の家老であり、奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦う。戦後、村上藩の責任を一身に背負って切腹。享年29歳。
■村上藩概要■
村上藩は慶長3年(1598年)に上杉景勝が会津に移封された後、村上周辺の領地を村上頼勝が9万石に入封したのが始まりとされます。頼勝は関ヶ原の戦い時に直接戦いに加わらなかったものの、旧上杉家家臣が起こした一揆を鎮圧した事で領土が安堵され村上藩を立藩することが出来ました。しかし、2代藩主・忠勝が御家騒動を起こし改易され、新たに堀直寄が10石で入封します。村上堀家は3代直定が幼少で死去した事で断絶し、分家である村松堀家が村松藩3万石で存続します。その後も本多忠義や松平直矩、榊原政倫、本多忠孝、松平輝貞、間部詮房などが短期間の内に変わり安定的な世情とはなりませんでした。享保5年(1720年)に内藤弌信が5万石で入ると明治維新まで内藤家が藩主を歴任し、ようやく安定した藩政が行われるようになりました。
内藤家のもと、150年余り安定した時代が過ぎました。しかし、幕末の動乱は小藩村上をも否応無く巻き込んでいきます。「譜代」の立場上、村上藩は奥羽列藩同盟に加盟して新政府軍と戦うことになります。藩内の意見は必ずしも統一されたわけではありませんでした。城内では親幕府派と新政府派が、次第に対立を深めていたのです。このような事態を収拾すべく、それまで江戸の藩邸に詰めていた藩主・信民はなんとか藩論を恭順でまとめようと帰城します。長岡が落城し、新政府軍は村上に近づいてきました。
この時の藩主・信民はわずか19歳。先代藩主・信親は江戸にいる間に戦争が始まり領国に戻れませんでした。藩主の説得を受けても家臣たちは一向にまとまる気配を見せず、慶応4年7月11日(現在の1868年年8月28日、また、異説として旧暦7月16日説もあり)ついに、幼い藩主・信民は心労のあまり自害してしまいます。これにより、村上藩は完全に組織的な統制を喪失。藩士たちは己の信ずるところに従い、バラバラに事態に対処せざるを得なくなってしまいます。
佐幕派だった家老・鳥居三十郎 はこの時順派は留め置き、徹底抗戦を望む藩士だけを連れて城を出ます。そして米沢との国境で新政府軍と交戦。城に残した恭順派には城に火をつけさせて恭順の意を示させました。幼い藩主・信民の自害から僅か1ヵ月後の慶応4年(1868年)8月11日、村上城は新政府軍によって落城してしまいます。しかし、村上藩は城下の町と種川を無傷で残しました。交戦派が城に留まっていれば、町は長岡と同じように焼き尽くされたことは確かです。
その後、明治4年(1871年)の廃藩置県により村上藩は消滅して村上県となり、同年11月には新潟県に併合され、現在に至ります。
内藤氏の菩提寺 光徳寺にて
村上城址麓の光徳寺にある8代藩主・内藤信民のお墓です。戦乱の時代、19歳の若さで藩主の勤めは重荷だったのでしょう。お気の毒な最期でした。

同じお寺のお墓のなか、偶然に見つけたものがこちらでした。
お墓には「大栗峯右衛門の墓」と添え書きがありました。説明書きをみると、どうも城館に火を放った人物のようでした。
慶応4年8月11日没 享年60歳(こちらは調べてみても、これ以上の詳しいことは分かりませんでした。)

鳥居三十郎の菩提寺 安泰寺にて
安泰寺は村上藩主・内藤氏の先祖、信成候が、本体如然清庵宗徹禅師を招いて開いた寺で、内藤氏の移封とともに、天保5年(1720年)村上に移り藩主の学問所であったといいます。

明治2年6月25日、戊辰戦争に村上藩が官軍敵対した責めを一身に負い、家老・鳥居三十郎が切腹したのは菩提寺であるこの安泰寺でした。この戦いで村上藩は、奥羽列藩同盟にくみして幕府軍となりましたが、鳥居三十郎は城下を戦火から守るために羽越国境(山形との県境)へ兵を率いて戦いました。これにより、村上城下は殆ど被害を受けませんでした。鳥居三十郎 享年29歳。
墓地は羽黒町の宝光寺にあり、遺品等は村上市郷土資料館に展示されています。
この“安泰寺”のある場所が『塩町』という地名なのですが、それについての説明版がありましたので、一緒に載せておきます。
塩町について
元和(1615~1624年)の頃の越後村上城図に小町の東隅に「シヲ町」の名がみられます。これは当時小町が塩を商っていたことを示しています。寛永12年(1635年)の村上惣町並銘々軒付之帳には「本塩町」20軒が載っており、位置は大町と寺町の間です。ここにあった町が藩主・松平大和守により、当時御免町を称していた今の塩町に移されたといいます。町名は小町が持っていた塩の専売権を受け地浜塩を扱ったことに由来しています。宝永2年(1705年)の家数83軒。寶光寺にて
村上市羽黒町にある寶光寺です。先に述べたように鳥居三十郎の菩提寺は安泰寺ですが、お墓はこちらのお寺にあります。

墓所を探しながら歩いていると、「鳥居三十郎先生御墓所」の文字が飛び込んで来ました。昭和43年、百年法要を機に建てられたもののようです。

墓石の側面には俗名と、反対側には切腹の日、明治2年6月25日の文字が刻まれていました。

村上市郷土資料館にて
おしゃぎり会館の2階にある「郷土資料館」には、鳥居三十郎の遺品が展示されています。村上藩家老 鳥居三十郎所用 種別 大小拵 工 桂一明一作造

鳥居三十郎所用 印鑑(写真手前)|財布(写真奥)

鳥居三十郎所用 陣羽織の半襟


鳥居三十郎所用 印鑑(写真手前)|財布(写真奥)

鳥居三十郎所用 陣羽織の半襟

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