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親鸞聖人上陸の地

2011年09月19日

親鸞聖人と越後七不思議
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居多神社より、僅か数百メートル程行くと 居多ヶ浜 があります。塀に囲まれたこの付近が“親鸞聖人上陸の地” と言われる場所です。
七不思議の残る居多神社も、海岸が浸食され現在地に移るまでは、この上陸のちよりもさらに西方にあったといいます。

親鸞聖人上陸の地

浄土真宗の開祖である親鸞聖人は承安3年(1173年)京都日野の里の貴族・日野有範と 妻・吉光の長男として誕生します。 親鸞聖人が4歳の時に父が、続いて8歳の時には母が亡くなってしまい、叔父である藤原範綱に引き取られます。 その後、本人の願いにより京都東山の青蓮院に出向き、9歳という若さで仏門に入ります。29歳までの時を 比叡山で天台宗を学びますが山を下る決心をし、建仁元年(1201年)法然上人の門下に入り、専修念仏(浄土宗)の信仰に帰依します。

親鸞聖人上陸の地

承元元年(1207年)浄土宗の教えが旧来の仏教による弾圧を受け、法然に連座して京を追放された聖人は、越後国府に流される事になります。この処遇は、親鸞聖人の出が貴族であったことが影響しているとも言われています。この時、76歳の法然は土佐へ流罪、高弟4人はが死罪となっています。僧籍を剥奪され、俗人・藤井善信となった親鸞聖人は、北陸道を下り木浦(能都町)から舟で国府に至り、この地に上陸したと伝えられています。

親鸞聖人上陸の地

“五智さんのところてん”の話の中にもあるように、浄土真宗の経典の中に「海」のつく言葉が多くみられるのは、この地で結ばれた恵信尼に支えられつつ暮らした日々が大きく影響していると考える説もあるそうです。4年後、親鸞聖人は許されますが、そのまま越後に留まったとされ、35歳から42歳までをこの国府で過ごし、当時住んだとされる「竹之内草庵」や「竹之前庵」「片葉の葦」などの遺跡や言い伝えが、上陸の地の周辺には多く残っています。

この地に足を踏み入れた際、複雑な思いがあったでしょう。。。この日の上陸の地は8月最後の好天の日曜日で、浜辺ではマリンスポーツの大会が開かれ、とても明るく、賑やかな印象でした。

親鸞聖人上陸の地

海に向かって左手には門が設けられていました。奥に何やらお堂があるようなので、そちらの散策に行ってみる事にしました。

親鸞聖人上陸の地

門をくぐってすぐ脇に植えられていた“威徳の松”

親鸞聖人上陸の地

松の根本には “念仏発祥の地” の石碑がありました。
7年間の国府暮らし。その間に、浄土真宗の根本聖典「教行信証」の基礎となる念仏を生み出したと言われ、この地は「念仏発祥の地」となっています。

親鸞聖人上陸の地

上陸の地にある「托鉢姿の親鸞聖人像」

親鸞聖人上陸の地

ここにも 七不思議のひとつ “片葉の葦” が生えていました。

親鸞聖人上陸の地

現在、おみやげ屋さんを兼ねている居多ヶ浜記念堂が昭和42年(1967年)に建てられ、昭和46年(1971年)には八角堂の “見真堂” が建てられています。

親鸞聖人上陸の地

“見真”名は、明治9年(1876年)に明治天皇から親鸞聖人に贈られた大師号だそうです。見真堂の中央奥には、「南旡阿弥陀仏」と書かれた前に座る親鸞聖人の木造座像。その前中央に僧侶が座り、数人の信者の方々と共に熱心にお経をあげている最中でした。

親鸞聖人上陸の地

訪問日:2011年8月28日(日)
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そふぃあ
Posted by そふぃあ
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