片葉の葦|居多神社
2011年09月20日
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以前、「天地人」を巡る旅でもお邪魔したことのある居多神社です。ここには親鸞聖人の越後七不思議の第一番目に登場する“片葉の葦” がある事でも有名な、もう1つの越後一の宮です。
前回の訪問の時は、まだ冬枯れの頃。しかも、予備知識もなく出掛けたので、この時に「葦」の存在にも気づかず。(~_~;)
今回改めて出掛けてみると、車を停めてすぐの駐車場の前に目的である「葦」が群生してありました。
“片葉の葦” とはその名の通り、葦の葉が一方のみに向かって生えている葦の事です。

承元元年(1207年)3月 親鸞聖人は 「念をすれば救われる」 という専修念仏の教えが禁止され、越後国府に流刑となります。後、建保2年(1214年)布教のため、常陸国(茨城県)稲田へ旅立つまでの7年間をこの国府の地で暮らすことになります。
居多ヶ浜に上陸した親鸞聖人は、まず越後一の宮の居多神社に参拝し『すゑ遠く 法を守らせ居多の神 弥陀と衆生のあらん限りは』と詠み、念仏が盛んになりますようにと祈願したところ、一夜にして居多神社境内の葦が片葉になってしまったというのです。

確かに、群生している葦の葉は、どれも片方だけにしか生えていませんでした。

居多神社には親鸞聖人が祈願する際、日の丸に「南旡阿弥陀仏」と書かれた日の丸御名号も納められています。
せっかく来たので神社内にもお参りし、前回は駆け足で拝見しただけだったので、改めて境内の散策をしようと思いました。
前回の話にも出て来ますが、居多神社は彌彦神社と並び「越後一の宮」と言われています。県内に一の宮が2つ。。。七不思議同様に、これもまた不思議であったりします。
居多神社は、大国主命、奴奈川姫、建御名方命(諏訪社)を御祭神とする式内社です。
弘仁4年(813年)朝廷から従五位下を、貞観3年(861年)には従四位下を賜り、古代、越後国司の厚い保護を受けて栄えます。南北朝の動乱が一段落した貞和3年(1347年)室町幕府から社殿修造費として田井保(上越市板倉区田井)三分の二を賜ります。さらに観応2年(1351年)越後守護・上杉憲顕から荒蒔保(上越市清里区荒牧)保司分を社領として賜るなど、越後守護・上杉家の厚い保護をうけ、越後一の宮として栄えます。戦国時代になると、京都の文人たちが相次いで越後府中(直江津・五智)を訪れます。しかし、次第に戦乱の渦の中に、居多神社も巻き込まれ行きます。天文2年(1533年) 反長尾為景派によって社殿が焼かれてしまい、そのため為景(上杉謙信の父)は居多神社に内乱鎮定を祈願し、社殿造営を約束します。

天正6年(1578年)上杉謙信の死後 “お館の乱” が勃発すると、居多神社は景虎方に味方したため景勝軍の攻撃を受けてしまいます。神主・花ヶ前家は難を避け、能登・越中を転々としますが、慶長3年(1598年)に景勝が会津移封になり、再び居多神社へと戻って来ます。翌年には、春日山城主となった堀氏より社領13石を寄与されますが、もはや昔の面影は無くなっていたといいます。元禄2年(1689年)には、俳人の松尾芭蕉も「奥の細道」の帰途、居多神社を参拝しているそうです。
明治12年になると、海岸浸食のため現在地に遷座します。以前は “親鸞聖人上陸の地” のさらに西方にあったそうです。平成20年には現在の社殿に建て替えられています。

拝殿から見ると、この神社にも立派な相撲場が造られていました。その向こうに見える像は、御祭神である 大国主命。建御名方命を胸に抱かれた 奴奈川姫 の三神像です。

相撲場のさらに奥には、稲荷神社が祀られていました。

御祭神は 倉稲魂命(宇迦之御魂命)今まで見たものの中でもかなり古い年代の、貴重なものに感じました。

こちらは 雁田神社。御祭神は 高皇産霊神、神皇産霊神。子授けや安産祈願の神社です。
。。。なので、真正面からのアングル写真はあえて控えました。

以前に来た時、雨の降る寒い中、ここで熱心に拝んでいた1人の男性を見掛けました。我が家のように、とんでもない時期にまで子どもを授かるような人間もあれば、なかなか授かれない人もいるのだと、その姿が妙に脳裏に残っていました。
その人にも今頃は、元気なお子さんが授かってるといいな。。。と、思い出しながら、私たちもお参りし、次なる場所へと向かいました。
訪問日:2011年8月28日(日)
前回の訪問の時は、まだ冬枯れの頃。しかも、予備知識もなく出掛けたので、この時に「葦」の存在にも気づかず。(~_~;)
今回改めて出掛けてみると、車を停めてすぐの駐車場の前に目的である「葦」が群生してありました。
片葉の葦

“片葉の葦” とはその名の通り、葦の葉が一方のみに向かって生えている葦の事です。

承元元年(1207年)3月 親鸞聖人は 「念をすれば救われる」 という専修念仏の教えが禁止され、越後国府に流刑となります。後、建保2年(1214年)布教のため、常陸国(茨城県)稲田へ旅立つまでの7年間をこの国府の地で暮らすことになります。
居多ヶ浜に上陸した親鸞聖人は、まず越後一の宮の居多神社に参拝し『すゑ遠く 法を守らせ居多の神 弥陀と衆生のあらん限りは』と詠み、念仏が盛んになりますようにと祈願したところ、一夜にして居多神社境内の葦が片葉になってしまったというのです。

確かに、群生している葦の葉は、どれも片方だけにしか生えていませんでした。

居多神社には親鸞聖人が祈願する際、日の丸に「南旡阿弥陀仏」と書かれた日の丸御名号も納められています。
せっかく来たので神社内にもお参りし、前回は駆け足で拝見しただけだったので、改めて境内の散策をしようと思いました。
居多神社散策

前回の話にも出て来ますが、居多神社は彌彦神社と並び「越後一の宮」と言われています。県内に一の宮が2つ。。。七不思議同様に、これもまた不思議であったりします。
居多神社は、大国主命、奴奈川姫、建御名方命(諏訪社)を御祭神とする式内社です。
弘仁4年(813年)朝廷から従五位下を、貞観3年(861年)には従四位下を賜り、古代、越後国司の厚い保護を受けて栄えます。南北朝の動乱が一段落した貞和3年(1347年)室町幕府から社殿修造費として田井保(上越市板倉区田井)三分の二を賜ります。さらに観応2年(1351年)越後守護・上杉憲顕から荒蒔保(上越市清里区荒牧)保司分を社領として賜るなど、越後守護・上杉家の厚い保護をうけ、越後一の宮として栄えます。戦国時代になると、京都の文人たちが相次いで越後府中(直江津・五智)を訪れます。しかし、次第に戦乱の渦の中に、居多神社も巻き込まれ行きます。天文2年(1533年) 反長尾為景派によって社殿が焼かれてしまい、そのため為景(上杉謙信の父)は居多神社に内乱鎮定を祈願し、社殿造営を約束します。

天正6年(1578年)上杉謙信の死後 “お館の乱” が勃発すると、居多神社は景虎方に味方したため景勝軍の攻撃を受けてしまいます。神主・花ヶ前家は難を避け、能登・越中を転々としますが、慶長3年(1598年)に景勝が会津移封になり、再び居多神社へと戻って来ます。翌年には、春日山城主となった堀氏より社領13石を寄与されますが、もはや昔の面影は無くなっていたといいます。元禄2年(1689年)には、俳人の松尾芭蕉も「奥の細道」の帰途、居多神社を参拝しているそうです。
明治12年になると、海岸浸食のため現在地に遷座します。以前は “親鸞聖人上陸の地” のさらに西方にあったそうです。平成20年には現在の社殿に建て替えられています。

拝殿から見ると、この神社にも立派な相撲場が造られていました。その向こうに見える像は、御祭神である 大国主命。建御名方命を胸に抱かれた 奴奈川姫 の三神像です。

相撲場のさらに奥には、稲荷神社が祀られていました。

御祭神は 倉稲魂命(宇迦之御魂命)今まで見たものの中でもかなり古い年代の、貴重なものに感じました。

こちらは 雁田神社。御祭神は 高皇産霊神、神皇産霊神。子授けや安産祈願の神社です。
。。。なので、真正面からのアングル写真はあえて控えました。

以前に来た時、雨の降る寒い中、ここで熱心に拝んでいた1人の男性を見掛けました。我が家のように、とんでもない時期にまで子どもを授かるような人間もあれば、なかなか授かれない人もいるのだと、その姿が妙に脳裏に残っていました。
その人にも今頃は、元気なお子さんが授かってるといいな。。。と、思い出しながら、私たちもお参りし、次なる場所へと向かいました。
訪問日:2011年8月28日(日)
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