竹之内草庵(五智国分寺)と鏡ヶ池・養爺清水|上越
2011年09月25日
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五知国分寺、話はこちらからの続きになります。
五智国分寺の境内には “竹之内草庵” があり、ここはまた、親鸞聖人ゆかりの地でもあります。

承元元年(1207年)専修念仏禁止の弾圧により、親鸞聖人35歳の時、越後に流罪となります。藤井善信と還俗させられ、国府の居多ヶ浜に上陸した親鸞聖人は五智国分寺のご住職とは比叡山で同学の友であったことからも、国司の許しを得て上陸の地からもほど近い国分寺境内の五仏のそばに草庵を結び、ここで生活することになります。国府代官監視の元、「延喜式」による流人生活を、約1年間送ったといいます。その後はここより南方の “竹之前庵” と呼ばれる草庵に移り住み、恵信尼との生活を営みます。

建暦元年(1211年)赦免の宣旨を受けます。親鸞聖人が常陸の国(茨城県)に旅立たれる際、国分寺の北にある鏡ヶ池に姿を映し、自らの姿を写し込まれたという、手彫り等身大の親鸞聖人坐像「御自刻御真影」が竹之内草庵内に安置されています。親鸞像は、市指定の文化財になっています。

居多神社でひいた「大吉」のおみくじと一緒にちびが腰掛けているのは、“親鸞聖人 腰掛石”

大きな銅像のある周辺を引いて見てみると、こんもりと、1つの森のようになっています。

銅像に目が行き、銅像前からそのまま草庵跡を見学に行ってしまうと、銅像の後ろにあるものを見逃してしまいがちですが、ここにもいろいろと興味深いものがありました。竹垣の切れた右側から入ると、親鸞聖人の足跡でしょうか!?

そんな遊び心も楽しいですが、足跡を辿った先には五輪塔と「南无阿弥陀仏」の石碑があります。

「南无阿弥陀仏」の石碑は、親鸞聖人が流罪になって800年の年に建てられたそうです。
五輪塔の奥には、十数体の石仏群が石碑に向かう人を見守るようにありました。

五輪塔より左手には「親鸞聖人御配所」石碑。

さらに左に進むと「藤井善信(親鸞聖人の俗名)遠流服役小屋」の表示と、一段高くなり石碑が置かれていました。

2009年にお邪魔した際、私たちは裏門からお邪魔しているので、なんとも懐かしい場所だったりしますが、裏門を出てすぐの場所に、仏像を彫る際、自らの姿を映したと言われる“鏡ヶ池”が今でも残っています。

現在では、お世辞にも綺麗とは言えない池になっていますが、水近くに下りられるようになっていて、2匹のトンボが戯れている姿を見る事が出来ました。ここだけでなく、この周辺地にはため池があちこちにあるんですよ。


上写真の立て看板からも階段道がついていますが、現在はこの道の先に五智保育園があるため通行禁止になっています。おそらく、親鸞聖人が使用していた頃は、現在通れなくなっている道を通りここまで来ていたのだと思われます。
養爺清水は、親鸞聖人が竹之内草庵で暮らしていた時、飲み水や炊事にとして、また、硯の水や筆を洗う際などにも日常的に使用していた水だそうです。

僅かにしか流れ出てはいまでんが、夏でも冷たく癖が無くて美味しい水でした。
この水があるから、五智さんのところてんが美味しいわけなんだ!と、一人納得していました。
訪問日:2011年8月28日(日)・9月11日(日)
五智国分寺の境内には “竹之内草庵” があり、ここはまた、親鸞聖人ゆかりの地でもあります。
竹之内草庵
竹之内草庵は、当時 竹林に囲まれていたのでそう呼ばれたらしいですが、現在の建物は、明治6年に近隣の僧侶によって建てられたものだそうです。▼写真左に見える石碑に 「国府小学校発祥の地」 の文字がありますが、国府小学校は、明治7年(1874年)ここ五智国分寺の境内に開校したそうで、この建物が使われていたのでは。。。と思われます。
承元元年(1207年)専修念仏禁止の弾圧により、親鸞聖人35歳の時、越後に流罪となります。藤井善信と還俗させられ、国府の居多ヶ浜に上陸した親鸞聖人は五智国分寺のご住職とは比叡山で同学の友であったことからも、国司の許しを得て上陸の地からもほど近い国分寺境内の五仏のそばに草庵を結び、ここで生活することになります。国府代官監視の元、「延喜式」による流人生活を、約1年間送ったといいます。その後はここより南方の “竹之前庵” と呼ばれる草庵に移り住み、恵信尼との生活を営みます。

建暦元年(1211年)赦免の宣旨を受けます。親鸞聖人が常陸の国(茨城県)に旅立たれる際、国分寺の北にある鏡ヶ池に姿を映し、自らの姿を写し込まれたという、手彫り等身大の親鸞聖人坐像「御自刻御真影」が竹之内草庵内に安置されています。親鸞像は、市指定の文化財になっています。
境内にて
境内にある 親鸞聖人像は、台座も含め、見上げるような大きさ。この日見た中で一番大きな聖人像でした。
居多神社でひいた「大吉」のおみくじと一緒にちびが腰掛けているのは、“親鸞聖人 腰掛石”

大きな銅像のある周辺を引いて見てみると、こんもりと、1つの森のようになっています。

銅像に目が行き、銅像前からそのまま草庵跡を見学に行ってしまうと、銅像の後ろにあるものを見逃してしまいがちですが、ここにもいろいろと興味深いものがありました。竹垣の切れた右側から入ると、親鸞聖人の足跡でしょうか!?

そんな遊び心も楽しいですが、足跡を辿った先には五輪塔と「南无阿弥陀仏」の石碑があります。

「南无阿弥陀仏」の石碑は、親鸞聖人が流罪になって800年の年に建てられたそうです。
五輪塔の奥には、十数体の石仏群が石碑に向かう人を見守るようにありました。

五輪塔より左手には「親鸞聖人御配所」石碑。

さらに左に進むと「藤井善信(親鸞聖人の俗名)遠流服役小屋」の表示と、一段高くなり石碑が置かれていました。

鏡ヶ池
ご本堂と親鸞堂(竹之内草庵跡)の間を奥に進むと、五智国分寺の裏門に出ます。2009年にお邪魔した際、私たちは裏門からお邪魔しているので、なんとも懐かしい場所だったりしますが、裏門を出てすぐの場所に、仏像を彫る際、自らの姿を映したと言われる“鏡ヶ池”が今でも残っています。

現在では、お世辞にも綺麗とは言えない池になっていますが、水近くに下りられるようになっていて、2匹のトンボが戯れている姿を見る事が出来ました。ここだけでなく、この周辺地にはため池があちこちにあるんですよ。

養爺清水(ようやしみず)

上写真の立て看板からも階段道がついていますが、現在はこの道の先に五智保育園があるため通行禁止になっています。おそらく、親鸞聖人が使用していた頃は、現在通れなくなっている道を通りここまで来ていたのだと思われます。
養爺清水は、親鸞聖人が竹之内草庵で暮らしていた時、飲み水や炊事にとして、また、硯の水や筆を洗う際などにも日常的に使用していた水だそうです。


僅かにしか流れ出てはいまでんが、夏でも冷たく癖が無くて美味しい水でした。
この水があるから、五智さんのところてんが美味しいわけなんだ!と、一人納得していました。
訪問日:2011年8月28日(日)・9月11日(日)
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