竹之前草庵(国府別院)と柳清水|上越
2011年10月02日
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親鸞聖人を巡る旅。次なる目的地は国府別院です。

宝徳元年(1449年)第8代の蓮如聖人が配所旧跡を参拝されたのをきっかけに一端はここに戻りますが、長尾為景の「無碍光宗追放令」により、再び信州へと逃れ、上杉謙信が禁をゆるめると再びここに戻り、念仏を教えを広め、旧跡を守りました。江戸時代の松平家の高田城築城の際、春日山付近の寺院も高田に移住しましたので、安養道場も移り、その後、御配所は愛宕権現別当宝持院の支配地となります。
江戸時代に入りしばらくすると、配所跡に参拝者が多くなり、親鸞聖人の御遺徳を偲ぶ気運が興って来ます。蓮如聖人の参拝から200年余の時を経て第14代の寂如上人の命を受けた高田瑞泉寺の善珍和尚により「親鸞聖人御旧跡」の石碑を建立し、旧跡復興の手掛かりをつくります。

文化2年(1805年) この地の念仏者の熱意により袈裟掛けの松の聖地跡に現本堂が建立されますが、当時、借地だったために寺号を許されず「小丸山」と名乗るだけでした。明治9年(1872年)に小丸山別院と公称し、昭和5年(1930年)に「本願寺国府別院」と改称し、現在に至っているお寺です。

参道を歩いて行くと、まず最初に“国府別院納骨塔” と書かれた石柱が目に留まります。

塀で囲まれた中には、こんもりと土が盛られ、ひっそりと五輪塔があります。親鸞聖人とその妻・恵信尼の700回大遠忌法要の記念事業として、恵信尼の寿塔にあやかって建てられたものだそうです。寿塔とは恵信尼廟所にある五輪塔の事ですが、2つを見比べてもよく似た造りになっています。

真正面の大きな銀杏が印象的な浄土真宗本願寺派 本願寺国府別院 です。

たくさんの歴史を見て来たこの銀杏の木も、間もなく紅葉し、見事な景色になる事でしょう。

境内には、2つの親鸞聖人像があります。1つは、これまでも各地で見た大きな銅像。

そしてもう1つは、居多ヶ浜に上陸した際の様子を再現したというものでした。

35歳で流罪になった親鸞聖人は、居多ヶ浜に上陸し、その後の約1年間を国分寺境内の “竹之内草庵” で過ごされ、その後、そこから南方にある “竹ヶ前(たけがはな)草庵” に移られます。この越後国府での配所御草庵の地が、現在の国府別院の地であり浄土真宗発祥の聖地ともいうべき場所です。

親鸞聖人が過ごした竹ヶ前草庵の旧跡を残そうと、聖人が罪を赦され関東へ旅立った後、約600年もの時を経て、寛政10年(1798年)に造立。文化2年(1805年)に建立された総欅造りという本堂は、内部に入るとその豪華さに溜息が出ます。思わず、秀吉の “黄金の茶室” を連想させるような黄金に輝く内陣。

極楽浄土を再現したと思われる色彩が散りばめられているのでしょう。

内陣正面の同一須弥檀上、その右側の宮殿にはご本尊の阿弥陀如来様、左側の厨子には親鸞聖人御真影が並んで安置されているのが印象的です。また、余間には “恵信尼公御影” も安置されていました。

そして、天井絵、内外陣の天人、その他彫刻、内陣の壁や外陣の極彩色など。。。

これまで見学して来たどの寺院よりも華やかな印象を受け、口をアングリしながら、かなりの時間見上がておりました。

そして、在りし日の “袈裟掛けの松” の写真も飾られていました。親鸞聖人が袈裟を掛けられたと言い伝えられてきた松です。聖人は、木や草も仏性を備える存在として愛おしまれたそうです。
松は平成3年に害虫のため伐採され、現在はその姿を見る事は出来ません。

上写真とほぼ同じ場所の現在の様子です。

右奥に見えるのが “袈裟掛けの松跡” の表示、手前には “竹ヶ前草庵跡” を示す石碑が建てられています。
恵信尼との結婚生活を営みつつも、自らを “愚禿親鸞” と名乗り、在家止住の凡夫が救われる道を、身をもって切り開いてたのがこの国府の地であり、ここでの7年間は生涯の中でも最も苦労の多かった時期でもあったといいます。僅か7年という国府生活の中、県内各地には聖人にまつわる話が多く残る事からも、どれだけ苦労されたのかが想像出来るような気がします。その後の建保2年(1214年)に常陸国へ渡り、『教行信証』を著わし、浄土真宗を開くことになります。
今は無くなってしまった袈裟掛けの松ですが、境内には “二代けさかけ実生の松” の石碑があります。

石碑のすぐ脇に松があれば、「ああ、これがそうなんだな」と分かるのですが、石碑から少し離れ、両側には枝振りの異なる松の木が2本ありました。枝振りからすると、鐘堂の前の松か⁉しかし、古写真の松の下にある灯籠と同じものが右側の松の根本にある気もするし。。。???
ご本堂の中だけでなく、鐘堂の彫り物も立派でした。

一番最初の写真の撮影場所前に立つと、その前には道路が通っています。その昔、加賀街道(北国街道)だった道です。元禄2年(1689年)7月に、松尾芭蕉一行が奥の細道で通過した街道でもあります。

芭蕉も通ったその同じ道を横切って走る線路を越えると、すぐのところに柳清水があります。明治44年の北陸本線開通によって、現在敷地は分断されてしまっていますが、ここもまた、国府別院の所有地なのです。
柳清水の井戸跡が、ひっそりと残されています。

柳清水の井戸は、親鸞聖人が竹ヶ前草庵で暮らしていた時、生活用水として使用していた水です。こちらは現在水が枯れてしまっていますが、鏡ヶ池、養爺清水、そして柳清水と御配所では、生活していた水をも大切にしている様子が伺えます。

また、この地は 上杉景勝・景虎の跡目争い “お館の乱” の舞台でもあり、1578年の居多ヶ浜と並び、大場の古戦場でもあります。
訪問日:2011年9月11日(日)

浄土真宗発祥の聖地ともいうべき国府別院
承元元年(1207年) “承元の法難” により親鸞聖人35歳の時、越後国府に流罪となります。建歴元年(1211年) 流罪赦免となりますがすぐに京へは戻らず、42歳までの7年余りを越後で念仏の教えを広める活動をされます。建保2年(1214年) 親鸞聖人が常陸の国(茨城県)へと出発された後は門侶の覚善が「親鸞配所御草庵安養道場」としてお念仏を相続していましたが、やがて信州に移ります。宝徳元年(1449年)第8代の蓮如聖人が配所旧跡を参拝されたのをきっかけに一端はここに戻りますが、長尾為景の「無碍光宗追放令」により、再び信州へと逃れ、上杉謙信が禁をゆるめると再びここに戻り、念仏を教えを広め、旧跡を守りました。江戸時代の松平家の高田城築城の際、春日山付近の寺院も高田に移住しましたので、安養道場も移り、その後、御配所は愛宕権現別当宝持院の支配地となります。
江戸時代に入りしばらくすると、配所跡に参拝者が多くなり、親鸞聖人の御遺徳を偲ぶ気運が興って来ます。蓮如聖人の参拝から200年余の時を経て第14代の寂如上人の命を受けた高田瑞泉寺の善珍和尚により「親鸞聖人御旧跡」の石碑を建立し、旧跡復興の手掛かりをつくります。

文化2年(1805年) この地の念仏者の熱意により袈裟掛けの松の聖地跡に現本堂が建立されますが、当時、借地だったために寺号を許されず「小丸山」と名乗るだけでした。明治9年(1872年)に小丸山別院と公称し、昭和5年(1930年)に「本願寺国府別院」と改称し、現在に至っているお寺です。

参道を歩いて行くと、まず最初に“国府別院納骨塔” と書かれた石柱が目に留まります。

塀で囲まれた中には、こんもりと土が盛られ、ひっそりと五輪塔があります。親鸞聖人とその妻・恵信尼の700回大遠忌法要の記念事業として、恵信尼の寿塔にあやかって建てられたものだそうです。寿塔とは恵信尼廟所にある五輪塔の事ですが、2つを見比べてもよく似た造りになっています。

真正面の大きな銀杏が印象的な浄土真宗本願寺派 本願寺国府別院 です。

たくさんの歴史を見て来たこの銀杏の木も、間もなく紅葉し、見事な景色になる事でしょう。

境内には、2つの親鸞聖人像があります。1つは、これまでも各地で見た大きな銅像。

そしてもう1つは、居多ヶ浜に上陸した際の様子を再現したというものでした。

35歳で流罪になった親鸞聖人は、居多ヶ浜に上陸し、その後の約1年間を国分寺境内の “竹之内草庵” で過ごされ、その後、そこから南方にある “竹ヶ前(たけがはな)草庵” に移られます。この越後国府での配所御草庵の地が、現在の国府別院の地であり浄土真宗発祥の聖地ともいうべき場所です。

親鸞聖人が過ごした竹ヶ前草庵の旧跡を残そうと、聖人が罪を赦され関東へ旅立った後、約600年もの時を経て、寛政10年(1798年)に造立。文化2年(1805年)に建立された総欅造りという本堂は、内部に入るとその豪華さに溜息が出ます。思わず、秀吉の “黄金の茶室” を連想させるような黄金に輝く内陣。

極楽浄土を再現したと思われる色彩が散りばめられているのでしょう。

内陣正面の同一須弥檀上、その右側の宮殿にはご本尊の阿弥陀如来様、左側の厨子には親鸞聖人御真影が並んで安置されているのが印象的です。また、余間には “恵信尼公御影” も安置されていました。

そして、天井絵、内外陣の天人、その他彫刻、内陣の壁や外陣の極彩色など。。。

これまで見学して来たどの寺院よりも華やかな印象を受け、口をアングリしながら、かなりの時間見上がておりました。

そして、在りし日の “袈裟掛けの松” の写真も飾られていました。親鸞聖人が袈裟を掛けられたと言い伝えられてきた松です。聖人は、木や草も仏性を備える存在として愛おしまれたそうです。
松は平成3年に害虫のため伐採され、現在はその姿を見る事は出来ません。

上写真とほぼ同じ場所の現在の様子です。

右奥に見えるのが “袈裟掛けの松跡” の表示、手前には “竹ヶ前草庵跡” を示す石碑が建てられています。
恵信尼との結婚生活を営みつつも、自らを “愚禿親鸞” と名乗り、在家止住の凡夫が救われる道を、身をもって切り開いてたのがこの国府の地であり、ここでの7年間は生涯の中でも最も苦労の多かった時期でもあったといいます。僅か7年という国府生活の中、県内各地には聖人にまつわる話が多く残る事からも、どれだけ苦労されたのかが想像出来るような気がします。その後の建保2年(1214年)に常陸国へ渡り、『教行信証』を著わし、浄土真宗を開くことになります。
今は無くなってしまった袈裟掛けの松ですが、境内には “二代けさかけ実生の松” の石碑があります。

石碑のすぐ脇に松があれば、「ああ、これがそうなんだな」と分かるのですが、石碑から少し離れ、両側には枝振りの異なる松の木が2本ありました。枝振りからすると、鐘堂の前の松か⁉しかし、古写真の松の下にある灯籠と同じものが右側の松の根本にある気もするし。。。???
ご本堂の中だけでなく、鐘堂の彫り物も立派でした。

親鸞聖人が生活用水とした柳清水
いったん境内を出て、今度はすぐ近くにある “柳清水” へと向かいます。一番最初の写真の撮影場所前に立つと、その前には道路が通っています。その昔、加賀街道(北国街道)だった道です。元禄2年(1689年)7月に、松尾芭蕉一行が奥の細道で通過した街道でもあります。

芭蕉も通ったその同じ道を横切って走る線路を越えると、すぐのところに柳清水があります。明治44年の北陸本線開通によって、現在敷地は分断されてしまっていますが、ここもまた、国府別院の所有地なのです。
柳清水の井戸跡が、ひっそりと残されています。

柳清水の井戸は、親鸞聖人が竹ヶ前草庵で暮らしていた時、生活用水として使用していた水です。こちらは現在水が枯れてしまっていますが、鏡ヶ池、養爺清水、そして柳清水と御配所では、生活していた水をも大切にしている様子が伺えます。

また、この地は 上杉景勝・景虎の跡目争い “お館の乱” の舞台でもあり、1578年の居多ヶ浜と並び、大場の古戦場でもあります。
訪問日:2011年9月11日(日)
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