光源寺|上越
2011年10月11日
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竹之前草庵のあった国府別院前の加賀街道(北国街道)を500m程移動すると光源寺があります。光源寺は、建暦元年(1211年)親鸞聖人の弟子・最信が開いたといわれているお寺です。

最信は木曽義仲の家臣でありましたが、親鸞聖人に深く信心し、親鸞聖人の流罪が決まった際に弟子となった人物です。天正3年(1575年)教如上人より寺号を賜り、覚円坊を改め光源寺と称するようになり、享保17 年(1732年)真如上人の時代に光源寺は本山の抱地となります。

誰だ!ヒカルゲンジって読んだのは。冗談を言いながら境内に入ると、手水舎の前でビックリ!

井戸水を汲み上げる手水でした。井戸水、冷たかった!

境内にあった “八ツ房梅” の石碑。

親鸞聖人越後七不思議のひとつで、親鸞聖人が植えた梅干の種から育ったと伝えられ、ひとつの花に八つの実がなる八重咲きの梅の木の事です。一般的には阿賀野市の梅護寺が有名ですが、ここにあるものは、梅護寺から株分けされた梅の木なのだそうです。
光源寺のご本堂。

御本尊として中央に安置されているのは、赦免された際、親鸞聖人が自らを描いたという「流罪勅免御満悦御真影」

若き日の恵信尼を描いたとされる掛け軸が、写真左の方に確認出来ますが、その他、向い合った聖人と恵信尼が描かれている「連座の名号」「越後教化旅立の立像」「流人標札」など、様々なゆかりの品を見る事が出来ます。
このお寺は高浜虚子ともゆかりのお寺で、親子3代に渡る句碑が見られます。

▲左:「野菊にも配流のあとと偲ばるる」 昭和21年9月26日ホトトギス600号記念俳句大会で虚子が光源寺で詠まれた句です。親鸞聖人配流750年事業の一環として昭和31年6月28日に建立。
▲右:虚子の息子・高浜年尾 とその娘・稲畑汀子の父娘句碑
「櫓田の実入り吹かれてゐることも」 年尾の句は、昭和41年11月20日に、この地で詠まれたものです。
「梅雨晴れてそこに心のある如く」 汀子の句は、昭和54年7月15日、第52回北信越ホトトギス俳句大会で、光源寺で詠まれたものだそうです。句碑は、平成4年12月13日 五智吟社創立70周年を記念して建立。
この他にも、北信濃の武将・村上義清の供養塔があります。

信濃の葛尾城主・村上義清は天文22年(1553年)甲斐の武田信玄に敗れ、信濃衆・高梨政頼、須田満親、島津忠直、井上清政らと共に上杉謙信を頼って越後へとやって来ます。これが発端となり、5回にもわたる川中島の合戦が行われたのです。
永禄11年(1568年)10月3日 越後の地で義清は故国を思い、父の冥福を祈ってこの供養塔を建立しました。永禄8年(1565年)義清は糸魚川市の根知城主となります。天正元年(1573年)1月10日 信濃への帰還が叶わぬまま、根知城で没したといわれています。
訪問日:2011年9月11日(日)

最信は木曽義仲の家臣でありましたが、親鸞聖人に深く信心し、親鸞聖人の流罪が決まった際に弟子となった人物です。天正3年(1575年)教如上人より寺号を賜り、覚円坊を改め光源寺と称するようになり、享保17 年(1732年)真如上人の時代に光源寺は本山の抱地となります。

誰だ!ヒカルゲンジって読んだのは。冗談を言いながら境内に入ると、手水舎の前でビックリ!

井戸水を汲み上げる手水でした。井戸水、冷たかった!


境内にあった “八ツ房梅” の石碑。

親鸞聖人越後七不思議のひとつで、親鸞聖人が植えた梅干の種から育ったと伝えられ、ひとつの花に八つの実がなる八重咲きの梅の木の事です。一般的には阿賀野市の梅護寺が有名ですが、ここにあるものは、梅護寺から株分けされた梅の木なのだそうです。
光源寺のご本堂。

御本尊として中央に安置されているのは、赦免された際、親鸞聖人が自らを描いたという「流罪勅免御満悦御真影」

若き日の恵信尼を描いたとされる掛け軸が、写真左の方に確認出来ますが、その他、向い合った聖人と恵信尼が描かれている「連座の名号」「越後教化旅立の立像」「流人標札」など、様々なゆかりの品を見る事が出来ます。
このお寺は高浜虚子ともゆかりのお寺で、親子3代に渡る句碑が見られます。

▲左:「野菊にも配流のあとと偲ばるる」 昭和21年9月26日ホトトギス600号記念俳句大会で虚子が光源寺で詠まれた句です。親鸞聖人配流750年事業の一環として昭和31年6月28日に建立。
▲右:虚子の息子・高浜年尾 とその娘・稲畑汀子の父娘句碑
「櫓田の実入り吹かれてゐることも」 年尾の句は、昭和41年11月20日に、この地で詠まれたものです。
「梅雨晴れてそこに心のある如く」 汀子の句は、昭和54年7月15日、第52回北信越ホトトギス俳句大会で、光源寺で詠まれたものだそうです。句碑は、平成4年12月13日 五智吟社創立70周年を記念して建立。
この他にも、北信濃の武将・村上義清の供養塔があります。

信濃の葛尾城主・村上義清は天文22年(1553年)甲斐の武田信玄に敗れ、信濃衆・高梨政頼、須田満親、島津忠直、井上清政らと共に上杉謙信を頼って越後へとやって来ます。これが発端となり、5回にもわたる川中島の合戦が行われたのです。
永禄11年(1568年)10月3日 越後の地で義清は故国を思い、父の冥福を祈ってこの供養塔を建立しました。永禄8年(1565年)義清は糸魚川市の根知城主となります。天正元年(1573年)1月10日 信濃への帰還が叶わぬまま、根知城で没したといわれています。
訪問日:2011年9月11日(日)
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