attention admin about comments trackbacks you may also like

浄興寺|上越

2011年10月16日

親鸞聖人と越後七不思議
-
直江津から高田の市街地へ移動してくると、JR高田駅の西側には60軒以上のも寺院が立ち並び、大規模な寺町が出来ています。 高田藩主・松平光長公の時代の市街復興計画により、寛文5年(1665年)に形作られた寺町です。
その中の1つが、浄土真宗の教祖・親鸞聖人によって創設されたお寺 “浄興寺” です。

浄興寺

もともとは常陸国(茨城県)にあったものですが、信濃国(長野県)を経て、上杉謙信公の招きによりこの地へ移って来た寺院です。

浄興寺

親鸞聖人は承元元年(1207年)念仏禁止令により越後国府に流罪となりますが、越後滞在7年の後、妻子と共に常陸の国(茨城県)へ移られ、笠間郡稲田郷(笠間市稲田町)に稲田禅坊を開かれました。親鸞聖人は、農民や下層武士を主とする民衆に布教されると共に自己の信仰を深められ、真宗の根本経典である “教行信証” を著わされました。その喜びを山号・寺号に顕され、この禅坊を “歓喜踊躍(かんきゆやく)山浄土真宗興行寺”略して “浄興寺” と名付けられました。時に、元仁元年(1224年)本願寺の創建より、48年前の事でした。親鸞聖人は浄興寺に留まるところ十余年、その後は京都へお帰りになり、弘長2年(1262年)90歳で最期を迎えられます。親鸞聖人の御頂骨と遺品は、御遺言に従い、浄興寺第二世・善性上人(後鳥羽天皇皇子)により稲田浄興寺に安置されました。後に、稲田浄興寺は戦火を受けて灰燼となり、寺領のある信濃国水内郡太田庄長沼へ移りました。

浄興寺

以後、およそ300年間長沼にありましたが、永禄4年(1561年)川中島合戦の戦火を受けお堂が炎上したため、永禄10年(1567年)上杉謙信公の招きにより、春日山城下に移り、お堂を建立し、上杉家の紋章を拝領します。慶長12年(1607年)上杉家が会津移封になり、そのあとに入封して来た堀氏が福島(直江津)に築城すると福島城下へ転じ、さらに松平忠輝公の高田城築城と共に高田へ移りますが、寛文5年(1665年)の地震によりお堂が崩壊してしまったため、時の藩主・松平光長公の市街復興計画に従い、現在の地にお堂を建立し300有余年の月日を経て現在に至ります。

境内にあった “八房の梅”

浄興寺

親鸞聖人七不思議の1つに「梅護寺に滞在した際、梅干の種を庭に植えて歌を詠むと、翌年芽が出て、枝葉が茂り、薄紅色の八重の花が咲き、実が八つづつ出来るようになった。」。。。という話がありますが、これはその子孫梅でしょうか!?
光源寺にも八房梅から株分けされたという梅の木があるので、絶やさないよう、遠く離れたゆかりの地でも育てているのかも知れませんね。梅の木の後ろには、 旅猫ちゃんがいた手水舎があります。

手水舎の脇にあった“聖徳太子堂”。中には太子作と伝わる聖徳太子像が収められています。親鸞聖人が常陸国稲田郷にいた当時からお堂の中央に安置して、日夜拝んでいたものだそうです。

浄興寺

そして聖徳太子堂に向くようにあるのは、この日4体目のご対面となった親鸞聖人像。

浄興寺

等身大に近い大きさで、台座に乗った聖人像が少し上から見下ろす感じで目が合います。その目が凄く睨んでいるようで、心の中まで見透かされているようで怖かったです。

親鸞聖人像の後ろには“聖徳皇太子”の石碑 と隣に位置する鐘楼には、上杉謙信公寄贈の梵鐘がつるされています。

浄興寺

浄興寺御本堂です。寺院建築では県内で最大最古の真宗本堂です。平成元年(1989年)に、国の重要文化財に指定されています。

浄興寺

御本堂と繋がるように拝殿が設けられています。

浄興寺

浄興寺

拝殿の前には、今では珍しい “水琴窟” がありました。
昨年秋、中野邸の庭園でも見た “水琴窟” ですが、中野邸では竹筒が置かれ、それを用いて地中内の音を聞くような仕組みになっていましたが、こちらのものは、手水鉢の水が地面に落ちると音が聞こえる。。。はず。日本庭園特有の風流だと思っていましたが、寺院建築の中でも、同じ風流を楽しんでいたんですね。

浄興寺

拝殿の真後ろに、親鸞聖人の “本廟” があります。本廟には、親鸞聖人の御頂骨が安置されています。

浄興寺

親鸞聖人は、弘長2年(1262年)90歳の時に京都にて亡くなられています。御頂骨は、一宗開闢地である稲田浄興寺に安置されました。本願寺の歴代門主は御頂骨奉安所を慕い、それぞれ御頂骨を分納することを習わしとしました。そのため、こちらの本廟内には第3代・覚如上人から、第20代・達如上人までが納められています。

浄興寺

浄興寺第24世・厳正上人は本廟の再建を計画され、当時、伽藍(がらん)師の名匠とされた柏崎の篠田宗吉師が棟梁となり、明治15年(1882年)に起工、明治21年(1888年)6月に精巧の美を尽くした廟宇が完成しました。
間近で見る彫刻はため息が出るくらい、良い仕事がされています。

訪問日:2011年9月11日(日)
関連する記事
そふぃあ
Posted by そふぃあ
ご訪問ありがとうございます。管理人の体験談を心のままに綴ったブログです。
話題に時差あり、脱線もあり、時に辛口意見もございます。
私感強めな内容ですが、長年積み上げてきた情報満載!何かのお役に立てたなら幸いです。
※撮影した写真の著作権は放棄しておりません。画像のお持ち帰りは固くお断りいたします。

更新通知で新しい記事をいち早くお届けします