ゑしんの里にて|上越
2011年10月24日
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新潟県上越市板倉区は、親鸞聖人の妻・恵信尼さまが晩年を過ごした場所とされていて、恵信尼さまが建てたと伝わる五輪塔(寿塔)の一帯が “ゑしんの里” となっています。
駐車場に車を停め、ゑしんの里記念館脇を歩いて来ると、敷地内のゆったりとした芝生広場と遠くに見える妙高連山の景色が綺麗です。

周囲の緑、水のコントラストも美しい外観は、建築家・池原義郎氏によるものです。

昭和32年(1957年)板倉区で発見された石塔が恵信尼の “寿塔” であると認定されて以来、昭和30年代後半より有志などの活動により、石塔周辺の整備が始まります。昭和44年(1969年)になると、最初の会館が建立されますが、時は流れ、建物の老朽化から、さらなる周辺整備が行われるようになります。

その第一次の整備事業として、平成19年(2007年)で親鸞聖人が越後流罪となって800年という節目の年であることから、ゑしんの里構想の総仕上げとして、平成16年~17年(2004~2005年)にかけて整備事業が行われ、“寿塔” の周辺の整備と、新たな “ゑしんの里記念館” の竣工がされました。建設にあたり、板倉区高野出身の大実業家、佐川急便の創業者・佐川清氏の郷土愛により記念館構想が生まれ、息子の佐川急便会長・栗和田榮一氏が継承され実現したそうです。
物を知らない私は、ここに来るまで、佐川急便の創業者が県民であることも知りませんでした。
恵信尼は、浄土真宗の教祖・親鸞聖人と共に念仏生活を歩まれた人で、“お念仏の母” とも言うべきお方です。大正10年(1921年)に、西本願寺から恵信尼の手紙 『恵信尼消息』 が発見されます。これにより、親鸞聖人の比叡山時代の様子や恵信尼との結婚の様子など具体的に知られるようになります。

手紙は、京都に残した末娘・覚信尼に宛てられたもので、弘長3年(1263年)から文永5年(1268年)までの8通、手紙の他にも“譲状” が2通と“大無量寿経” をかなで書き写されたものも残されていました。鎌倉時代の女性によって書かれた貴重な文献として、国の重要文化財に指定されています。ご自身のお手紙からも、寿永元年(1182年)の生まれである事が分かっています。出身については、京都の九条家と繋がりがある人ではないか?越後の三善一族と縁が深い人ではないか?宮使いをされていた人なのではないか。。。など、さまざまに言われていますが、確かな事は判明していないのだそうです。
承元元年(1207年)専修念仏禁止令の法度により、越後に流罪になった親鸞聖人と国府の竹之前草庵にて結婚生活を営まれます。結婚の時期については定かではないですが、残された手紙には、信蓮坊(明信)が 「未の年三月三日」の生まれと記されています。未の年とは建暦元年(1211年)のことで、親鸞聖人39歳、恵信尼は30歳の頃。丁度、越後流罪の時期にあたります。信蓮坊が何番目の子どもだったのかは分かりませんが、建暦元年以前には、すでに家庭を持っていた事が伺えます。

二人の間には、6人の子どもがありました。

国府の配所で7年の生活を送り、建保2年(1214年)一家は常陸の国(茨城県)へと向かわれ、稲田の草庵(笠間市)を中心とした生活は、念仏相続と伝道の日々でもありました。関東での伝導は約20年間であったと言われ、その後 恵信尼は親鸞聖人と共に京都に向かわれ京都でも20年程を過ごし、住まいは五条西洞院の辺りであったと記されています。建長6年、73歳の頃、何人かの子どもと共に越後に戻って暮らします。恵信尼は越後に財産があり、その管理が必要だったのでは? とも言われています。

文久4年(1267年)7月9日の手紙に 「といのたまきより」 と地名が記されたものがありました。昭和31年(1956年)からの調査で、その場所は板倉地区の「米増」であろうということになりました。しかも、地域の東南隅には、古い五輪の石塔がひっそりと建っていたといいます。80歳の頃に大病を患った事があったためか、83歳の頃、塔師に注文して高さ7尺の五重の石塔を作成を依頼したことが、ご本人の手紙でわかりました。その塔が、現在の上越市板倉区米増の水田の中に「比丘尼墓」として約740年間、誰のものとも知れずにひっそりと立っていたのが昭和31年(1956年)に発見され、翌年調査の結果、恵信尼寿塔である事が認定されました。
寿塔の傍らには、樹齢600年といわれる “こぶし”の古株があり、そこからはこぶしの若木が生えていたそうです。以来、恵信尼さまを偲ぶものとしてこぶしの花がシンボルとなり、ゆかりの場所ではよく見られます。昭和37年(1962年)その土地を譲り受け、国府別院の飛地境内とし、整備がすすめられ、平成15年(2003年)に再整備工事が行われ現在に至ります。

恵信尼さま自ら建立された五輪塔

周囲は整備され、すっかり景色は変わりましたが、五輪塔の姿は昭和32年の田んぼの中にある写真と変わりありません。そして、五輪塔の両脇に、今でもこぶしの木が見られるのも、その当時と同じ景色でしょう。
残された手紙は87歳のもが最後で、おそらくこれ以降、あまり歳月を経る事なく、文永5年(1286年)頃に御往生されていると思われます。


御廟所脇に、今年4月に完成したばかりの“恵信尼さま会館”がありました。

建物は自由に出入り出来るようになっていて、入ってみると礼拝施設でした。中央には黄金の阿弥陀様が祀られ、その両脇には親鸞聖人と恵信尼さま御影の複製がそれぞれに掛けられ、壁面のあちこちに真っ白なこぶしの花の絵が施され、恵信尼さまを偲ぶにふさわしい場所となっていました。

会館の前には、びっくりするくらいたくさんのバッタたちが飛び交っていました。そして、会館脇に見えるのは、平成25年度完成予定の北陸新幹線。これが完成すると、恵信尼さまの静かな環境もちょっと変化しますね。箕冠城跡にも、いつかお邪魔してみたいです。

恵信尼さま会館の向いにあった親鸞聖人像

敷地内には“こぶしの丘”もあり、町ぐるみでこぶし育成に努めているようです。

こぶしの花が満開の時期に、また訪れてみたい。

ぐるっと散策し、最後に ゑしんの里記念館にお邪魔しました。
館内は、ゆかりの歴史資料や関連書物、研究書などを展示するゑしんミュージアム、地域の観光情報を広く紹介するコーナー、特産品販売コーナー などがありますが、親鸞聖人750回忌ということで「恵信尼展」が特別開催されていて、さらに勉強になりました。

板倉地区には縁がなく、今までゆっくり立ち寄った事が無かった場所でした。

恵信尼さまがご縁となり、この日はもう少しゆかり地を巡ってみます。
訪問日:2011年9月11日(日)
駐車場に車を停め、ゑしんの里記念館脇を歩いて来ると、敷地内のゆったりとした芝生広場と遠くに見える妙高連山の景色が綺麗です。

周囲の緑、水のコントラストも美しい外観は、建築家・池原義郎氏によるものです。

昭和32年(1957年)板倉区で発見された石塔が恵信尼の “寿塔” であると認定されて以来、昭和30年代後半より有志などの活動により、石塔周辺の整備が始まります。昭和44年(1969年)になると、最初の会館が建立されますが、時は流れ、建物の老朽化から、さらなる周辺整備が行われるようになります。

その第一次の整備事業として、平成19年(2007年)で親鸞聖人が越後流罪となって800年という節目の年であることから、ゑしんの里構想の総仕上げとして、平成16年~17年(2004~2005年)にかけて整備事業が行われ、“寿塔” の周辺の整備と、新たな “ゑしんの里記念館” の竣工がされました。建設にあたり、板倉区高野出身の大実業家、佐川急便の創業者・佐川清氏の郷土愛により記念館構想が生まれ、息子の佐川急便会長・栗和田榮一氏が継承され実現したそうです。
物を知らない私は、ここに来るまで、佐川急便の創業者が県民であることも知りませんでした。
恵信尼は、浄土真宗の教祖・親鸞聖人と共に念仏生活を歩まれた人で、“お念仏の母” とも言うべきお方です。大正10年(1921年)に、西本願寺から恵信尼の手紙 『恵信尼消息』 が発見されます。これにより、親鸞聖人の比叡山時代の様子や恵信尼との結婚の様子など具体的に知られるようになります。

手紙は、京都に残した末娘・覚信尼に宛てられたもので、弘長3年(1263年)から文永5年(1268年)までの8通、手紙の他にも“譲状” が2通と“大無量寿経” をかなで書き写されたものも残されていました。鎌倉時代の女性によって書かれた貴重な文献として、国の重要文化財に指定されています。ご自身のお手紙からも、寿永元年(1182年)の生まれである事が分かっています。出身については、京都の九条家と繋がりがある人ではないか?越後の三善一族と縁が深い人ではないか?宮使いをされていた人なのではないか。。。など、さまざまに言われていますが、確かな事は判明していないのだそうです。
承元元年(1207年)専修念仏禁止令の法度により、越後に流罪になった親鸞聖人と国府の竹之前草庵にて結婚生活を営まれます。結婚の時期については定かではないですが、残された手紙には、信蓮坊(明信)が 「未の年三月三日」の生まれと記されています。未の年とは建暦元年(1211年)のことで、親鸞聖人39歳、恵信尼は30歳の頃。丁度、越後流罪の時期にあたります。信蓮坊が何番目の子どもだったのかは分かりませんが、建暦元年以前には、すでに家庭を持っていた事が伺えます。

二人の間には、6人の子どもがありました。
- 女子 小黒女房
- 善鸞(ぜんらん) 宮内卿 遁世号慈信坊(とんせいごうじしんぼう)
- 明信(みょうしん)栗沢信蓮坊(くりさわしんれんぼう)建暦元年(1211年)3月誕生
- 有房(ありふさ)出家法名道性 益方大夫入道(ますかただいふにゅうどう)
- 女子 高野禅尼(たかのぜんに)
- 女子 覚信尼(かくしんに) 元仁元年(1224年)誕生

国府の配所で7年の生活を送り、建保2年(1214年)一家は常陸の国(茨城県)へと向かわれ、稲田の草庵(笠間市)を中心とした生活は、念仏相続と伝道の日々でもありました。関東での伝導は約20年間であったと言われ、その後 恵信尼は親鸞聖人と共に京都に向かわれ京都でも20年程を過ごし、住まいは五条西洞院の辺りであったと記されています。建長6年、73歳の頃、何人かの子どもと共に越後に戻って暮らします。恵信尼は越後に財産があり、その管理が必要だったのでは? とも言われています。

文久4年(1267年)7月9日の手紙に 「といのたまきより」 と地名が記されたものがありました。昭和31年(1956年)からの調査で、その場所は板倉地区の「米増」であろうということになりました。しかも、地域の東南隅には、古い五輪の石塔がひっそりと建っていたといいます。80歳の頃に大病を患った事があったためか、83歳の頃、塔師に注文して高さ7尺の五重の石塔を作成を依頼したことが、ご本人の手紙でわかりました。その塔が、現在の上越市板倉区米増の水田の中に「比丘尼墓」として約740年間、誰のものとも知れずにひっそりと立っていたのが昭和31年(1956年)に発見され、翌年調査の結果、恵信尼寿塔である事が認定されました。
寿塔の傍らには、樹齢600年といわれる “こぶし”の古株があり、そこからはこぶしの若木が生えていたそうです。以来、恵信尼さまを偲ぶものとしてこぶしの花がシンボルとなり、ゆかりの場所ではよく見られます。昭和37年(1962年)その土地を譲り受け、国府別院の飛地境内とし、整備がすすめられ、平成15年(2003年)に再整備工事が行われ現在に至ります。

恵信尼さま自ら建立された五輪塔

周囲は整備され、すっかり景色は変わりましたが、五輪塔の姿は昭和32年の田んぼの中にある写真と変わりありません。そして、五輪塔の両脇に、今でもこぶしの木が見られるのも、その当時と同じ景色でしょう。
残された手紙は87歳のもが最後で、おそらくこれ以降、あまり歳月を経る事なく、文永5年(1286年)頃に御往生されていると思われます。


御廟所脇に、今年4月に完成したばかりの“恵信尼さま会館”がありました。

建物は自由に出入り出来るようになっていて、入ってみると礼拝施設でした。中央には黄金の阿弥陀様が祀られ、その両脇には親鸞聖人と恵信尼さま御影の複製がそれぞれに掛けられ、壁面のあちこちに真っ白なこぶしの花の絵が施され、恵信尼さまを偲ぶにふさわしい場所となっていました。

会館の前には、びっくりするくらいたくさんのバッタたちが飛び交っていました。そして、会館脇に見えるのは、平成25年度完成予定の北陸新幹線。これが完成すると、恵信尼さまの静かな環境もちょっと変化しますね。箕冠城跡にも、いつかお邪魔してみたいです。

恵信尼さま会館の向いにあった親鸞聖人像

敷地内には“こぶしの丘”もあり、町ぐるみでこぶし育成に努めているようです。


こぶしの花が満開の時期に、また訪れてみたい。

ぐるっと散策し、最後に ゑしんの里記念館にお邪魔しました。
館内は、ゆかりの歴史資料や関連書物、研究書などを展示するゑしんミュージアム、地域の観光情報を広く紹介するコーナー、特産品販売コーナー などがありますが、親鸞聖人750回忌ということで「恵信尼展」が特別開催されていて、さらに勉強になりました。

板倉地区には縁がなく、今までゆっくり立ち寄った事が無かった場所でした。

恵信尼さまがご縁となり、この日はもう少しゆかり地を巡ってみます。
訪問日:2011年9月11日(日)
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