新井別院|妙高
2011年10月25日
-
旧新井市街地の北部の北国街道沿いに、真宗大谷派の本願寺別院があります。

参道を進むと両側に3つの寺院があり、願楽寺境内に親鸞聖人像が置かれています。
毎年11月1日~4日になると、地元では “おたや” の名で親しまれている東本願寺新井別院の “報恩講” と、親鸞聖人恵信尼公を偲ぶお祭りが行われ、この参道や北国街道にも出店が並び、賑やかになります。

黒門から見ると、山門の左右後方に大きな銀杏の木が見えますが、樹齢3~400年と伝わる、銀杏の木だそうです。左が雄株、右は雌株ですが、雄株よりも2回り程細く小さめです。この他にも、同じく樹齢400年という菩提樹もあり、お寺のシンボルツリーになっています。

元々ここには 新井願生寺(大谷派)というお寺がありました。願生寺は大きな影響力を持つ有力寺院でしたが、高田浄興寺(戦後大谷派を離脱し、現在は浄興寺派本山)との教義争いが巻き起こります。この論争を取り締まるため、本山は役人を派遣しますが、願生寺は敗れ、信濃に追放されてしまいます。敗れた願生寺跡を新井道場とし、貞享2年(1685年)本願寺第16代一如上人により新井掛所が置かれたのが始まりです。本山の裁定と幕府の対応に不満のある願生寺側の寺院は、後に仏光寺派に転派するという事態になります。新井別院は、3度の風水害と 3度の火災に遭遇して現在に至っています。

お寺には過去帳が残っているので、これだけ詳しく歴史も分かるのでしょうが、我が家のお寺さまでは戊辰戦争の際に焼失しているという話でしたので、これだけの数の災害に遭いながらも、ここまで詳細が残っているのは凄い事ですね。
妙高は水害の多い場所だったらしく、江戸中期の延享4年(1747年)別院の裏を流れる暴れ川・矢代川の大洪水で流出し、平成17年(2005年)別院からおよそ400m先の妙高市工団町の地中から梵鐘が発見され、「大谷派本願寺末刹」 と刻まれていた事から、およそ260年ぶりに、新井別院に戻ったというニュースもありました。現在梵鐘は、妙高市の指定文化財となっているそうです。
山門を入る前からお寺らしくなく、境内から子供の賑やかな声が聞こえていましたが、保育園が隣接されているため、境内には遊具があり、親子が楽しそうに遊んでいる姿が印象的でした。
ご本堂の脇にある “恵信尼堂” です。昭和31年(1956年)に建立された恵信尼堂では、恵信尼さまの尊像が安置されています。上越市板倉区が、“恵信尼公終焉の地” と伝わることから、その遺徳顕彰のため信者により寄進されたものだそうです。
歳月によりお堂を表す文字も消えかかっていますが、彫り物だけが繊細で、何処か女性的な雰囲気を感じました。

このお寺には、江戸で活躍した画家・森蘭斎のお墓もありました。

森蘭斎は本名を森田文祥といい、江戸末期に活躍した新井出身の画家で、元文5年(1740年)中町森田家に生まれました。初め同郷の画家・五十嵐浚明から画を学びますが、23歳で長崎に出て、医学を修める傍ら神代熊斐(かみしろゆうひ)の門人となり、やがて千人の門人の中から選ばれ師匠の家督を相続し、号を登明から蘭斎に改めました。蘭斎は江戸へ出て、師匠の画風を広める事を使命と考えていました。安永3年(1774年)大阪に出て関西画壇で名声を博し、天明2年(1782年)42歳で 「蘭斎画譜」 8巻を 京都、大阪、江戸で出版します。その後、江戸へ出て、当時一流の画家(後に“南顰派”(なんぴんは)といわれた) となり、徳川御三家の御用を勤めるようになります。また、加賀藩のお抱え絵師にもなったといわれています。享和元年(1801年) 江戸で62歳の時に生涯を閉じています。
その翌年には「蘭斎画譜後編」が発行されました。この画譜には幕府の儒官・林述斎(じゅっさい)と、弟子であった宇都宮藩主・戸田忠翰(ただなか) が序文を、宍戸藩主・松平頼救(よりちか)が漢詩を寄せています。
墓は浅草の妙清寺にありましたが、昭和5年(1930年)当時の新井町長はじめ地元の有志により、新井別院の地へ移したそうです。
絵は、案内看板にあった 森蘭斎の “日の出鶴”

そしてもうひとつ。。。寺院の前が北国街道なので、ここにも松尾芭蕉の句碑がありました。

『人声や この道帰る 秋の暮』
芭蕉には、揚句の他に『此道や 行人なしに 秋の暮』と、似たような句も詠んでいます。芭蕉が亡くなる1ヵ月ほど前の句で、元禄7年9月26日に大阪・清水で催された句会に出句したもので、その数日前から 『行く』 か 『帰る』 か二句の間で揺れていたようです。
結局、事実上辞世の句ともいっていいような 「此道や~」 を残すこととなります。

訪問日:2011年9月11日(日)

参道を進むと両側に3つの寺院があり、願楽寺境内に親鸞聖人像が置かれています。
毎年11月1日~4日になると、地元では “おたや” の名で親しまれている東本願寺新井別院の “報恩講” と、親鸞聖人恵信尼公を偲ぶお祭りが行われ、この参道や北国街道にも出店が並び、賑やかになります。

黒門から見ると、山門の左右後方に大きな銀杏の木が見えますが、樹齢3~400年と伝わる、銀杏の木だそうです。左が雄株、右は雌株ですが、雄株よりも2回り程細く小さめです。この他にも、同じく樹齢400年という菩提樹もあり、お寺のシンボルツリーになっています。

元々ここには 新井願生寺(大谷派)というお寺がありました。願生寺は大きな影響力を持つ有力寺院でしたが、高田浄興寺(戦後大谷派を離脱し、現在は浄興寺派本山)との教義争いが巻き起こります。この論争を取り締まるため、本山は役人を派遣しますが、願生寺は敗れ、信濃に追放されてしまいます。敗れた願生寺跡を新井道場とし、貞享2年(1685年)本願寺第16代一如上人により新井掛所が置かれたのが始まりです。本山の裁定と幕府の対応に不満のある願生寺側の寺院は、後に仏光寺派に転派するという事態になります。新井別院は、3度の風水害と 3度の火災に遭遇して現在に至っています。

- 延享4年(1747年) 暴風雨で本堂破損
- 寛延元年(1749年) 暴風雨で本堂倒潰 2年後に再建
- 明和3年(1766年) 全堂宇焼失
- 安永元年(1772年) 本堂再建
- 天明元年(1781年) 洪水で鐘楼梵鐘流失
- 寛政4年(1792年) 梵鐘再建
- 寛政8年(1796年) 庫狸再建
- 享和元年(1801年) 食堂再建
- 文化4年(1807年) 正面再建
- 文政4年(1821年) 鐘楼再建
- 天保14年(1843年) 大火により茶所、鐘楼を残して全焼
- 嘉永5年(1852年) 本堂再建
- 明治11年(1878年) 落雷により本堂以下ことごとく全焼
- 同年 明治天皇北陸巡幸にあたり、上杉謙信公幼少の修行道場とされる。関山の古刹・宝蔵院より庫裡を移築し行在所に充てる
- 明治12年(1879年) 本堂仮説
- 明治28年(1895年) 十八間四面の現在の本堂を再建
お寺には過去帳が残っているので、これだけ詳しく歴史も分かるのでしょうが、我が家のお寺さまでは戊辰戦争の際に焼失しているという話でしたので、これだけの数の災害に遭いながらも、ここまで詳細が残っているのは凄い事ですね。
妙高は水害の多い場所だったらしく、江戸中期の延享4年(1747年)別院の裏を流れる暴れ川・矢代川の大洪水で流出し、平成17年(2005年)別院からおよそ400m先の妙高市工団町の地中から梵鐘が発見され、「大谷派本願寺末刹」 と刻まれていた事から、およそ260年ぶりに、新井別院に戻ったというニュースもありました。現在梵鐘は、妙高市の指定文化財となっているそうです。
山門を入る前からお寺らしくなく、境内から子供の賑やかな声が聞こえていましたが、保育園が隣接されているため、境内には遊具があり、親子が楽しそうに遊んでいる姿が印象的でした。
ご本堂の脇にある “恵信尼堂” です。昭和31年(1956年)に建立された恵信尼堂では、恵信尼さまの尊像が安置されています。上越市板倉区が、“恵信尼公終焉の地” と伝わることから、その遺徳顕彰のため信者により寄進されたものだそうです。
歳月によりお堂を表す文字も消えかかっていますが、彫り物だけが繊細で、何処か女性的な雰囲気を感じました。

このお寺には、江戸で活躍した画家・森蘭斎のお墓もありました。

森蘭斎は本名を森田文祥といい、江戸末期に活躍した新井出身の画家で、元文5年(1740年)中町森田家に生まれました。初め同郷の画家・五十嵐浚明から画を学びますが、23歳で長崎に出て、医学を修める傍ら神代熊斐(かみしろゆうひ)の門人となり、やがて千人の門人の中から選ばれ師匠の家督を相続し、号を登明から蘭斎に改めました。蘭斎は江戸へ出て、師匠の画風を広める事を使命と考えていました。安永3年(1774年)大阪に出て関西画壇で名声を博し、天明2年(1782年)42歳で 「蘭斎画譜」 8巻を 京都、大阪、江戸で出版します。その後、江戸へ出て、当時一流の画家(後に“南顰派”(なんぴんは)といわれた) となり、徳川御三家の御用を勤めるようになります。また、加賀藩のお抱え絵師にもなったといわれています。享和元年(1801年) 江戸で62歳の時に生涯を閉じています。
その翌年には「蘭斎画譜後編」が発行されました。この画譜には幕府の儒官・林述斎(じゅっさい)と、弟子であった宇都宮藩主・戸田忠翰(ただなか) が序文を、宍戸藩主・松平頼救(よりちか)が漢詩を寄せています。
墓は浅草の妙清寺にありましたが、昭和5年(1930年)当時の新井町長はじめ地元の有志により、新井別院の地へ移したそうです。
絵は、案内看板にあった 森蘭斎の “日の出鶴”

そしてもうひとつ。。。寺院の前が北国街道なので、ここにも松尾芭蕉の句碑がありました。

『人声や この道帰る 秋の暮』
芭蕉には、揚句の他に『此道や 行人なしに 秋の暮』と、似たような句も詠んでいます。芭蕉が亡くなる1ヵ月ほど前の句で、元禄7年9月26日に大阪・清水で催された句会に出句したもので、その数日前から 『行く』 か 『帰る』 か二句の間で揺れていたようです。
結局、事実上辞世の句ともいっていいような 「此道や~」 を残すこととなります。

訪問日:2011年9月11日(日)
関連する記事