砂防
2011年12月09日
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信濃川左岸の砂州や中洲が “島” となり、新しい土地として活用される一方で、海岸側にも土砂の堆積により、次第に砂丘が伸びていきます。嘉永年間(1848~1854年)仲役所の手代たちが、寄居村から土地を借りて山手(砂丘がある海岸よりの土地)側に家を建てるようになります。高台であったため、最初に朝日が当たる事から 「朝日町」 と名付けられ、今の旭町の誕生となります。
一方で、砂丘は別の問題も生み出してしまいます。飛砂被害です。
元和3年(1617年) 長岡藩主・堀直寄の湊町整備による植林が、飛砂事業の始まりといわれます。初代新潟奉行の川村修就(かわむらながたか)も堀氏より砂防工事を引き継ぎ、天保15年(1844年)日和山から願随時付近に渡り、松の苗を植え付けさせました。
実は、日和山共同墓地には初めて来たのですが、ひときわ大きなお墓があり、見ると「竹内式部の墓」とありました。

~式部 で、真っ先に浮かんだのが紫式部だった私。σ(^_^)
女性なのかと思ってしまうくらいの無知ゆえ、竹内式部(竹内敬持・たけのうち たかもち)についてはまたしっかりと勉強してから記事にしたいと思います。
訪問日:2011年9月17日(土)
一方で、砂丘は別の問題も生み出してしまいます。飛砂被害です。
元和3年(1617年) 長岡藩主・堀直寄の湊町整備による植林が、飛砂事業の始まりといわれます。初代新潟奉行の川村修就(かわむらながたか)も堀氏より砂防工事を引き継ぎ、天保15年(1844年)日和山から願随時付近に渡り、松の苗を植え付けさせました。
日和山共同墓地に残る砂防林の様子

さらに海岸側、新日和山周辺の砂防林


さらに海岸側、新日和山周辺の砂防林

実は、日和山共同墓地には初めて来たのですが、ひときわ大きなお墓があり、見ると「竹内式部の墓」とありました。

~式部 で、真っ先に浮かんだのが紫式部だった私。σ(^_^)
女性なのかと思ってしまうくらいの無知ゆえ、竹内式部(竹内敬持・たけのうち たかもち)についてはまたしっかりと勉強してから記事にしたいと思います。
訪問日:2011年9月17日(土)
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