燕喜館|新潟
2012年07月12日
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せっかく来たのでお詣りし、単なる通過点にするはずだった白山神社で思いがけず寄り道をしてしまいしたが、ここからは軌道修正し、白山公園内にある燕喜館へと向かいます。

江戸時代に若狭の国(現在の福井県)三国港から新潟の地に移住して来られた齋藤家は、代々大地主で酒問屋を営み、明治時代には海運業や新潟電燈会社、新潟商業銀行などを興し、新潟の発展に大きな寄与をされます。
齋藤家の邸宅は、新潟市の中心部において明治期の風情に触れる事のできる貴重なものとなっていましたが、この邸宅内の「燕喜館」と呼ばれていた接客部分を新潟市に寄付されたことから、平成9年(1997年)新たに茶室などを付加し、白山神社公園内の一角に再建されました。


現在、入り口になっている部分からお邪魔すると、すぐ左手の部分にあるのが奥座敷です。
この建物も一般に開放し、イベントなどにも使用するため、この日はコンサートが開催され、丁度はじまったばかりの時間帯でした。
写真に写りこむスタッフさん。。。1枚だけ写真を撮らせてもらった奥座敷内部。
3つの広間からなる奥座敷は40畳にもなる広さで、一の間に出書院や違い棚を備えた床の間を置き、三の間には紫壇、黒壇などを使った床の間が置かれています。床柱をはじめとする殆どの柱には、杉の四方柾が使用されているほか、入手困難な材料も多用され、十一尺(約3.3m)の天井高や壁の少ない造りとあわせ、開放的な空間となっています。
お客さんが腰掛けている縁側付近。。。長さ10間(約18m)に及ぶ杉丸太の桁や8間近い長押や幅木が使われている土縁は、厚い﨔の床板の廊下と那智黒石を敷き詰めた土間で構成され、内部空間と外部空間とが融合した独特な雰囲気を醸し出しています。


玄関の間にかかる扁額には「燕喜館」の名称とともに「明治真卯七月 題 三洲長炗」の文字が見られることから、明治24年に当時の書家であり漢学者であった長三洲(1833~1895)によって「燕喜館」の名がつけられたものと思われます。

控えの間脇から続く入縁からも、前座敷へと行けます。式台付近から見える灯籠は、明治15年 浅見五郎介作のもの。

(下写真・左)玄関の間を通り居室へと向かいます。(下写真・中)居室への入り口も、両サイドから入れるような造りになっていて、開放的な雰囲気がありました。(下写真・右)突き当たりのガラスの向こうに見えるのは、コンサート会場になっている奥座敷です。


滑車とおもりで上げ下げされる照明器具は、奥座敷や前座敷の立派なシャンデリアに比べ小ぶりではありますが、おもりを入れる陶器の繊細なデザインが、今なお新鮮に感じられます。

▼写真左が奥座敷、右が居室。どちらの部屋からも主庭の様子が良く見え、その造りは共に開放感に溢れています。

コンサート会場は、益々ヒートアップの様子。漏れ聞こえる楽しそうな音を聞きながら、燕喜館をあとにしました。
訪問日:2012年6月30日(日)
豪商・斎藤家本宅の一部を移築した燕喜館
新潟三大財閥(鍵富家、白勢家、そして今回の齋藤家)の一つに数えられた齋藤家は、先日お邪魔した夏の別邸とは別に、本宅はかつて東堀通り7番町にありました。その一部が白山公園内に移築再建され、現在は燕喜館として活用されています。
燕喜館について
新潟は、江戸時代に開港した5港のひとつであり、港を中心に栄えた商人の町です。燕喜館は、その湊町で明治から昭和にかけて活躍した商家、3代目 齋藤喜十郎氏の邸宅の一部(明治40年代の建物と推定)です。江戸時代に若狭の国(現在の福井県)三国港から新潟の地に移住して来られた齋藤家は、代々大地主で酒問屋を営み、明治時代には海運業や新潟電燈会社、新潟商業銀行などを興し、新潟の発展に大きな寄与をされます。
齋藤家の邸宅は、新潟市の中心部において明治期の風情に触れる事のできる貴重なものとなっていましたが、この邸宅内の「燕喜館」と呼ばれていた接客部分を新潟市に寄付されたことから、平成9年(1997年)新たに茶室などを付加し、白山神社公園内の一角に再建されました。

燕喜館探訪

現在、入り口になっている部分からお邪魔すると、すぐ左手の部分にあるのが奥座敷です。
この建物も一般に開放し、イベントなどにも使用するため、この日はコンサートが開催され、丁度はじまったばかりの時間帯でした。
写真に写りこむスタッフさん。。。1枚だけ写真を撮らせてもらった奥座敷内部。
奥座敷
燕喜館は、式台から前座敷を経て次第に格式が高くなり、奥座敷に至る構成になっています。3つの広間からなる奥座敷は40畳にもなる広さで、一の間に出書院や違い棚を備えた床の間を置き、三の間には紫壇、黒壇などを使った床の間が置かれています。床柱をはじめとする殆どの柱には、杉の四方柾が使用されているほか、入手困難な材料も多用され、十一尺(約3.3m)の天井高や壁の少ない造りとあわせ、開放的な空間となっています。
お客さんが腰掛けている縁側付近。。。長さ10間(約18m)に及ぶ杉丸太の桁や8間近い長押や幅木が使われている土縁は、厚い﨔の床板の廊下と那智黒石を敷き詰めた土間で構成され、内部空間と外部空間とが融合した独特な雰囲気を醸し出しています。

前座敷
奥座敷の斜向いにある前座敷は奥座敷に比べ、軽快な意匠になっています。床の間は平書院を備え、赤松の皮付き丸太を使用した床柱や円弧型の地袋が目を引きます。その他の柱には、丸太の四方を削り落とした面皮柱が使用され、自然な雰囲気を醸し出しています。欄間の菊模様が、別邸の2階大広間の欄間を思い出させます。
式台・玄関の間
式台は燕喜館の正式な玄関ですが、特別な行事以外には使用されていなかったようです。燕喜館の名称は、唐時代の思想家・韓愈(768~824)の「燕喜亭記」に由来し、「宴を催し、楽しみ喜ぶ」という意味から齋藤家が命名していたものを引き継ぎました。玄関の間にかかる扁額には「燕喜館」の名称とともに「明治真卯七月 題 三洲長炗」の文字が見られることから、明治24年に当時の書家であり漢学者であった長三洲(1833~1895)によって「燕喜館」の名がつけられたものと思われます。

控えの間脇から続く入縁からも、前座敷へと行けます。式台付近から見える灯籠は、明治15年 浅見五郎介作のもの。

(下写真・左)玄関の間を通り居室へと向かいます。(下写真・中)居室への入り口も、両サイドから入れるような造りになっていて、開放的な雰囲気がありました。(下写真・右)突き当たりのガラスの向こうに見えるのは、コンサート会場になっている奥座敷です。

居室
齋藤家のご主人が居られた居間は、落ち着いた雰囲気ながらも本鉄刀木(これでタガヤサンと読み、のこぎりが立たない程硬い材質らしいです。)の床柱を備えた床の間や、水原出身の画家・長井一禾(1869~1940)の筆による手描きの襖絵など、贅を尽くした意匠が見られます。
滑車とおもりで上げ下げされる照明器具は、奥座敷や前座敷の立派なシャンデリアに比べ小ぶりではありますが、おもりを入れる陶器の繊細なデザインが、今なお新鮮に感じられます。

▼写真左が奥座敷、右が居室。どちらの部屋からも主庭の様子が良く見え、その造りは共に開放感に溢れています。

おしまいに
夏には夏を過ごす為の別邸を持つ豪商。ここには本宅の一部分、接客のためだけの間がここに移築されているわけですが、本宅の全容はどれ程広かったのだろう?どれだけ贅沢だったのだろう? と、思わずにはいられませんでした。コンサート会場は、益々ヒートアップの様子。漏れ聞こえる楽しそうな音を聞きながら、燕喜館をあとにしました。
訪問日:2012年6月30日(日)
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