魚津城址|富山
2013年09月19日
-
【史蹟】地形を利用した中世の平城「魚津城址」
魚津は、古くから越中東部の新川部の中心として栄え、北国街道が通る交通の要所であったことから、建武2年(1335年)椎名頼胤によって築かれた城といわれています。以後、松倉城の重要な支城として機能していました。角川の河口近く、南は角川、北に神明川(現・鴨川)、東を深田、西が海岸に接する要害の地でした。椎名氏の後、上杉氏による越中支配の拠点でありました。天正10年(1582年)西方より勢力を拡大して来た織田方の柴田勝家、佐々成正、前田利家らの攻撃を受け「本能寺の変」の翌日である6月3日に落城しました。その後、魚津城は佐々氏、次いで前田氏の支配下となりましたが江戸時代の初めに廃城となり、加賀藩の米蔵や武器庫として利用されました。城の周囲には奉行所や寺院が置かれたことから、新川郡の政治的・軍事的中心として栄えました。江戸時代中期頃の「魚津町惣絵図」には、城の本丸とそれを囲む二の丸や堀が描かれていて近年まで堀の一部が残っていました。
明治になり、二の丸跡に魚津区裁判所が設置され、その後、明治9年(1876年)本丸跡に明理小学校新校舎が建設され、昭和22年(1947年)に大町小学校に改名され現在に至っています。

現代のように、リアルタイムで情報が入ってきたなら、あんな悲劇は生まれなかった。そんな戦いの場となった魚津城址。久々に「天地人」ゆかりの城址散策です。
といっても、現在は小学校になり、すっかり姿を変えてしまっている場所。自分の学校がお城だったって、生徒たちはどんな気分なのでしょう?プールの目隠しも、城壁っぽい感じに造られています。壁前の道路は、当時の水濠跡ということでしょうか?


小学校は夏休み中を利用し、校舎周辺の耐震工事中でしたが、この日の工事はも終わった時間帯だったので、城址碑を撮るだけと、遠慮なくお邪魔しました。
そろそろ日没近いです。急がないと。

写真右:校内にある城址碑
松倉城について
魚津城は、富山を代表する山城、松倉城の支城の1つでした。松倉城はその規模から、砺波市にある増山城、高岡市にある守山城とともに越中三大山城のひとつに数えられています。松倉城を中心として、半径2~3km圏内には升方城や北山城などの支城や砦が配置されさらに、半径7~8km圏内になると、魚津城や天神山城などのほか小規模な砦も点在し、広域な城郭郡を形成していました。これらの城址郡は、山々や海に向って張り出している魚津市特有の地形を巧みに利用して築かれたものです。市域を流れる早津川、角川、片貝川、布施川は、天然の水濠の役目を果たしたと考えられます。
魚津城の戦い
柴田勝家を総大将とする織田信長軍と上杉景勝軍との戦い。天正10年(1582年)
- 3月 織田方の連合軍(柴田勝家、前田利家、佐々成正ら)が、上杉軍が立て籠もる。魚津城を囲み攻撃を開始。
- 5月15日 魚津城救援のため、上杉景勝が援軍を率いて天神山城に布陣。
- 5月26日 織田方の軍勢が信濃と上野方面から越後へ進攻。上杉軍、本拠地の春日山城へ戻るため、松倉城の軍勢とともに天神山城より撤退。
- 6月2日 本能寺の変起こる。織田信長死去。
- 6月3日 織田方の連合軍が魚津城を攻略。
- 6月4日以降 信長の死が知らせられ、織田軍が撤退。上杉軍が魚津城を奪還する。

魚津城想定図
織田方に包囲され、危機的状況に陥った12人の魚津城将(中条景泰、竹俣景綱、吉江信景(資堅)、寺島長資、蓼沼長資、藤丸勝俊、亀田長乗、若林家長、石口広宗、安部政吉、吉江宗信、山本寺景長 うち、中条、竹俣、吉江信景は謙信の代からの側近|ドラマでは安部政吉役:葛山信吾)が、直江兼続に書状を送り、救援要請と現状を訴えています。
天正10年に書かれたこの書状は 「魚津在城衆十二名連署書状」と呼ばれていて内容を約すと以下のようになります。
「今月五日十日付けの書状2通、昨夜戌の刻に松倉城に届き、謹んで拝見いたしました。当地(魚津城)のことは、先だってご報告申し上げたとおり、壁際まで取詰められて昼夜問わず四十日間に渡り攻められていますが、今日こ至るまで持ち応えることができました。こうなった上は、我々は滅亡と決まりました。このことをなるべく(景勝公へ)御披露下さいます様、お頼み申します。 恐々謹言。
魚津城将12人が自害する際、自分たちの耳に穴を開け、自分の名前を書いた木札を全員で結び自害したと伝えられています。また、12人の連名の中にはありませんが、吉江景資も同時期に戦死しています。しかし、この悲劇が起こる前日の6月2日。織田方の家臣であった明智光秀が起こした謀反「本能寺の変」により相手方の大将である信長は、すでにこの世の人ではありませんでした。
≪魚津城本丸跡≫

大町小学校のグラウンド部分が、当時の本丸跡と思われます。一角に、当時の土塁と思われる盛り土が見られ、僅かながら面影を感じます。
≪ときわの松≫

写真右:棟方志功のときわの松

明理小学校と初代ときわの松

明理小学校と初代ときわの松
初代ときわ松は古い時代より魚津城にあり、一節には謙信公が植えたともいわれています。しかし、昭和16年(1941年)の火災で焼失し、焼け残った木で作った机が、初代松の面影を知るものとして、現在残されています。現在あるのは、火災伐採後改めて植えた2代目の松です。
また、戦時疎開のために昭和20~29年(1945~1954年)まで福光町(現・南砺市)に滞在していたという棟方志功氏。魚津にも幾度も訪れているそうで、その中の作品の1つにも、この松が描かれていました。
≪上杉謙信の歌碑≫

ときわの松の根元には、謙信公が詠んだ歌が刻まれた歌碑が建てられていました。
天正元年(1573年)謙信公が越後の精兵を率いて越中に進入し、魚津城にたむろした時の歌で、時は早秋、過雁一声鎧のまま野伏した謙信公が思わず旅愁をそそられ、この一句を口ずさんだと思われるものです。
この、ときわの松脇にある門付近が、当時の城の大手筋(大手門)だったようです。武士(もののふ)の よろいの袖をかたしきて 枕に近き はつかりの声
工事中で校内を横切らない方が良いこともあり、ここから校外に出て道を歩いて戻りました。
現在、裁判所になっている場所は、当時の二の丸です。裁判所前の少し深い用水路も、当時の水濠の名残りでしょう。


現在の地図との比較

二の丸にある裁判所前から本丸にある小学校への様子
魚津城は、元和元年(1615年)の「一国一城令」により廃城したものとみられています。
生徒たちが、自分達の学校の歴史の勉強が出来るよう(また、「天地人」当時に増設されたものか)たくさんの説明板があり、詳しく説明され、歴史に疎い私にもとても有り難かったです。掲載した写真や古絵図などは、撮影した案内板より使わせていただきました。
訪城日:2013年8月25日(日)
関連する記事