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三根山藩址|新潟市西蒲区

2013年10月12日

戊辰戦争関連
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米百俵のふるさと 越後・三根山藩

三根山藩は、長岡藩牧野家の創主・牧野忠成公が、寛永11年(1634年)に四男・定成公に6千石を分け与えたことに始まります。つまり、長岡藩の分家という立場でした。当時は6千石ではまだ大名ではなく、正式に大名になったのは第11代・忠泰公の時、文久3年(1863年)江戸末期のことです。当時、忠泰公は江戸で幕府の職務にも携わっていましたが、慶應3年(1867年)の大政奉還以降、国内騒乱の中で越後の情勢も不穏となり慶應4年(明治元年|1868年)三根山に帰任することになったのです。

しかし、三根山藩は小藩かつ微妙な地理に位置していたため、同年に勃発した戊辰戦争において、両勢力の間で翻弄されることとなります。更に、多額の軍費支出により藩財政も悪化しましたが何とかその苦境をのりきったのです。この頃、本家・長岡藩も幕末維新期の相次ぐ動乱により城も町も焼かれ困窮に陥っていました。その本家の窮状に三根山藩主・忠泰公は心を痛め、明治3年(1870年)4月~5月初めに君臣、領民一体となり、長岡藩を救うべく「米百俵」を送ります。この「米百俵」とは、決して富めるものからの施しでなく、自藩においても戦争による困難の中で苦しみながら、本家・長岡藩への心情を察した義援米であったのです。

三根山藩址

巻館跡交差点付近に▼このような案内版があります。

三根山藩址

小林虎三郎の「米百俵」の故事があまりにも有名なので、送られた側の長岡藩の方が有名なのかも?と思い、米百俵を送った側の三根山藩跡を訪れてみることにしました。

三根山藩址公園

旧・巻町(現・新潟市)峰岡にあった三根山藩は、角田山麓近く、旧北国街道の街道筋に位置し、現在は藩址公園になっています。

三根山藩址

藩址碑

三根山藩址

▲右写真は藩址公園左側の様子。さらにその奥は「入徳館野外研修場」

通路に石畳が敷かれ、当時の面影を偲ばせます。門から入って正面の、藩の御殿が置かれていた中枢部には、忠魂塔が建てられていました。

三根山藩址

米百俵の碑

宗家長岡藩は、戊辰戦争により3度焦土と化し、更に所領を三分の一に減ぜられ、藩士の窮乏は甚しいものがありました。
三根山藩もまた、戊辰戦争の出兵につき、領地替えのため信州伊那への移封という難局に会い、藩の財政はさらに困難を極めていましたが、君臣一体となり明治3年5月、長岡藩救援のため、米百俵の義援米を贈ります。
長岡藩大参事小林虎三郎は「国が興るのも町が栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ学校を建て、人物を養成するのだ。」と、教育を第一主義を唱え、苦境に喘ぐ藩士の強要を避けて米を売却し、その代金を国漢学校設立の資金とし、後に、山本五十六を初めとした新生日本を担う、偉大な人材育成の場となります。

この故事は、文豪・山本有三の同名の戯曲で有名になり、小泉純一郎氏が総理大臣時代に引用したことも記憶に新しいですね。ちなみに、この石碑の「米百俵」の文字は、牧野家14代・牧野博基氏によるものです。

米百俵の碑

藩址には、藩に貢献した人々の石碑があります。
  • 左:佐藤茂富|9代藩主・牧野忠直公の武芸の師範役だった人物。
  • 中:新保正与|幕末から明治期の漢学者で、明治3年に入徳館藩校の大教授となった校祖。明治5年には峰岡、曽根の私塾を小学校として寄付し、以来二十余年を教育に携わった人物。
  • 右:豊原又男|三根山藩士・豊原春男の末息子で、職業紹介事業の創始者。

三根山藩址

旧藩記念庫

中には入れませんが、屋根瓦には牧野家の家紋である「三葉柏」を望むことが出来ます。
三根山藩の名は明治3年(1870年)に「峰岡藩」と改められています。翌・明治4年(1871年)に廃藩置県が遂行され嶺岡県となり、同年に新潟県に併合されています。

三根山藩址

入徳館野外研修場

三根山藩址から僅か数十m先にある入徳館
野外研修場は(左上写真の右手奥は三根山藩址)第11代・牧野忠泰公によって開かれた藩校で「入徳館」と名付けられ、文武両道を目指しました。その後は入徳館小学校となりましたが、昭和53年まで続いた由緒ある名前です。

三根山藩址

現在は、学習とスポーツの施設として利用されています。宿泊管理棟(以前の小学校校門付近)には、「三葉柏」の校章が刻まれた石碑が残されています。

三根山藩址

旧入徳館小学校のたぶの木 新潟市指定文化財天然記念物

根回り5m、地上1m地点の幹周り4m。樹齢約200年というたぶの木が立っていました。
かつて、峰岡藩(三根山藩)の藩校としての伝統を持つ入徳館小学校が存在した頃は樹高も10mくらいあったとされ、樹勢も旺盛だったそうです。小学校が廃校となり、その跡地に入徳館野外研修場が新設されると環境の変化に伴い、樹勢も衰えたそうです。

たぶの木

現在の宿泊管理棟と三根山丸模型

見るからに、小学校だった事がわかる建物です。カラス越しにも、積み上げられた米俵が見えるので覗いてみると、靴箱で全容は見えませんでしたが、米百俵を積んだ三根山丸の再現模型が置かれていました。

三根山藩址

ここから先は立ち入り禁止になっていましたが、小学校校舎奥にはさらに時代の古そうな校舎跡も。

校舎

そして、旧北国街道筋から峰岡集落に入り、藩址・藩校址に至る手前には、大きくクランクした通路がみられます。
これも三根山藩が置かれた頃の名残りですね。

大きくクランクした道

訪城日:2013年8月24日(土)

舟戸橋

船戸橋

写真右奥に見えるのは舟戸集落。三根山藩のあった峰岡集落に向う際に通過する橋と集落なのですが、長岡藩への義援米は、この橋の脇にあった舟着場から運び出されたといわれています。

船戸橋

当時、この舟戸集落付近には、藩の蔵屋敷が置かれていたそうです。現在は河川改修がされ、すっかり川幅も狭くなっている矢川ですが、当時はこの付近から三根山丸が出航し、矢川 → 西川 → 信濃川と経由し長岡藩まで、米百俵が運ばれて行ったそうです。

船戸橋

訪問日:2013年9月27日(金)
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そふぃあ
Posted by そふぃあ
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