小木ノ城址|出雲崎
2013年11月06日
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小木ノ城
小木ノ城は、標高345m(比高300m)の西山丘陵の中央に築かれた山城です。小木ノ城に関する伝説は多々ありますが、古文書に明記されているのは今から約650年前の南北朝時代、建武2年(1335年)頃からと伝わります。この時代、新田氏とともに南朝方で活躍した小国氏の一族を伝える荻(小木)野遠江守の居城となります。延元3年(1338年)越前国藤島で新田義貞が戦死したことにより、越後の南朝勢力は次第に衰退。両朝統一以後も存続していましたが、応永の頃(1394~1427年)には滅亡したのではと思われます。
永正年間(1504~1520年)には雲上寺入道忠経が在城したと伝えられます。その後の戦国時代になり、上杉景虎(謙信)の時代には、信濃出身の松本石見守景繁が城主となり、以後、石見守景繁、大学忠繁、左馬助房繁と続きます。房繁幼少の折りは板屋修理亮が城代としてこれを補佐し、西古志地方 出雲崎料所を統轄し景勝時代になると松本大炊助助義が在城しました。
慶長3年(1598年)、上杉景勝の会津移封に伴い、城主松本氏、城代板屋氏ともに随行し廃城となります。
それに至るまでの260年間を山城として機能してきた城山は、現在、日本海側有数の電波基地であり、キャンプやハイキングにも最適の場所となっています。

小木ノ城址散策
ちび子抜きで、旦那の遅い夏休みに訪れたのは、今も越後線の「小木ノ城駅」に名を残す、三島丘陵に築かれた山城。入り口の道が分らず、麓の道を行ったり来たりしながらようやく目指す山への林道を見つけました。(;-ω-) =3

左:城域はじまり|中:道の左手に続く郭|右:郭A
地図の「切通し」付近からはじまる城域部。ここから左手にA郭群を見ながら登城になります。
入り口に、「←上にP有り」 の表示が出ているので、ついつい車で上がってしまいましたが、道幅は普通乗用車でもぎりぎり1台通行できる程度なのに、道の要所々に鉄板が敷かれ、工事用のダンプカーが往来していたので出会うと通行不能に!この平地に停めておけば良かったと、後になって後悔しました。
さて、城域には時々郭が切れている様子なども見られます。
写真だとちょっと取り付いたら郭に上がれそうにも見えますが、郭壁は意外と高く低いところでも2~3m程はあるので、容易に上がることは出来なかったです。また、上がってもかなりの藪で、平地があるねくらいしか分りません。(~_~;)

左:大門跡|右:空堀Ⅰ
千貫門のように、場所に標柱が出ていないのですが、脇に規模の大きな空堀を備えていたので、探せば場所を特定できると思います。堀の深さは3m程か?藪で引きずり込まれそうでした。

左:千貫門跡|中:空堀Ⅱ|右:竪堀になり斜面へ
大門が林道方面からの敵の防御のためとすると、こちらは天王堂道からの進入防御も兼ねての門だったのでしょう。現在の通路から2~3m上には、やはり深さ3m程の大空堀を備え、数m進むと、そのまま竪堀となり斜面に落ちるように処理されていました。

左:御殿上|右:郭B
現在、城址の駐車場にもなっている御殿上。建物が置かれ、その西南方向には道沿いに郭B群が見られます。
御殿上から一段下の郭B左側に当時の城道が見えているのも確認出来ます。
城域のはじまり部から御殿上までの西南郭群は、横矢の掛け易い構造になっていると感じました。

左:空堀Ⅲ|中:空堀Ⅲ反対側から|右:竪堀Ⅳ
御殿上の北東側には、僅かな深さの空堀Ⅲと、実城に至る郭Cの斜面にある竪堀Ⅳが確認出来ます。

御殿上からの眺めは、日本海の石地海水浴場(荒城付近)から弥彦山(黒滝城付近)までよく見えて爽快でした。
写真中央の少し地面が見えたようになった部分が小木地区で、その谷間から城址道が続いています。

御殿上からの階段道を上って行くと狼煙台方面に。今上って来た城道の延長を行くと実城に出ます。

階段道を上った先にある郭。この郭を進むと、分岐していた実城への通路へと繋がります。
小木ノ城山に見られる樹叢は県内の海岸沿いの丘陵地に残る落葉広葉樹の自然として、県指定の天然記念物にもなっています。また、山頂部の扇型の欅林は、古くから漁業従事者の船の位置や漁場を確認するための「オヤ山」として、重要な役目を持っていました。

左:実城|中:←部分の帯郭|右:狼煙台切岸
このお城の大事な実城部ですが、以前はここにNTTの電波塔があったはず。現在はそれを撤去する工事中なのか、それでダンプカーが引っ切り無しに通行するようです。さらにその奥にあるのは、場内では最大規模の郭を持つ二の郭ですが、共に見学できず。何よりも、遺構がいじられる姿を目の当たりにするのは、城址ファンとしてはとても残念です。
上杉氏の時代になると、春日山城から旗持山、八石山を経て、中下越の諸城を結ぶ繋ぎの城として重要な番城でした。

←部分の帯郭から狼煙台へ。通路である階段道は大きく曲がって狼煙台へと。

狼煙台 (8×15m程度)狼煙台は、実城部と高さ7~8mほどの切岸で処理され、内部西側には高さ1mほどの土塁がみられます。

左:城址碑|右:吊(弔)故城守烈士霊碑
城址碑、並びに吊故城守烈士霊碑が置かれています。
中越一円を一望出来る要地であるため、中世には狼煙の連絡地点とされました。重要な城であったはずなのに狼煙のイメージが強いためか、この部分だけは手付かずで残されています。ちなみに、現在は植えられた木々が邪魔しているので、御殿上からの方が見通しは良いです。

左:狼煙台から続く道|中:狼煙台に付随する細長い郭|右:郭から狼煙台方向
地図を見ると、この付近から北側、東側にも郭群が存在していて、実際には眼下に段郭が見えているのですが、数mという段差があり、薮化していたため下りられませんでした。

帰路は行きに通らなかった郭Cを通り、ここからは千貫門向こうから分岐する天王堂道を散策してみます。

左:Dの段郭群|中:上ってみた|右:郭上から通路方面
御殿上の下に広がる段郭群Dが、見上げるこちら側からははっきりと確認出来ました。いつもの城址散策ではちび子の子守り役の旦那が、この日はちび子も居なかったこともあり低めな段差の郭を見つけ「ここからなら上がれそう」と、一段よじ登ってみました。通路があんなに下に見えます。(~_~;) この山城、段郭間の高さが数m間隔えあるのも特徴です。

地図中の↑で記した箇所から見上げた様子。実城内の土塁より真下斜面になるものと思いますが、山頂部は自然地形で扇の形をしていて、それに従い自然地形のまま、大きな竪堀のように見える箇所が存在するようです。

左:叔母御屋敷|中:屋敷跡の段郭|右:振り返って
ここも段差が大きいので、下りることは出来ませんでしたが、数段に渡り段郭が続く様子は見られました。堀と土塁が交互に続く畝形阻障があるというのですが、何せ藪では見えません。(~_~;)横から撮った写真の、木々の脇に見られる窪んだ地帯がそうかな!?と感じられるくらいでした。

左:郭E|右:竪堀Ⅴ
大きな竪堀Ⅴを過ぎると、二の郭で鳴っていた工事用重機の音も小さくなり、そろそろ城域も終わりなのかと思わせます。

中:城域終わり!?|右:扇城台
道がカーブし、さらに向こうに茂みを発見!ここも誰も手をつけてい無い感じで凄い藪ですが、僅かに見えた標柱を確認すると城域の最後の郭部分であるようです。

左:扇城台と蓮花寺に至る道|右:扇城台から城山方向
この藪ですので、郭にあるはずの空堀も確認できず。しかし、見附、長岡、小千谷や芝峠などの望める南東側の開かれた眺めは抜群に良く、ここまで歩いた城の規模からも、重要な城であった事が伺えました。

登城日:2013年9月30日(月)
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