小木ノ城|屋敷跡
2013年11月07日
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松本氏の居館に関して、明確なことはわかっていないのですが、三島神社や薬師寺周辺が候補地として上がってきます。
三島神社は、島崎川沿いの旧道やJRが望める、比高15mほどの小高い場所にありました。


三島神社

境内の様子

奥州征伐の折、源義家がこの地に八幡宮を創建したのが始まり。後に、別の場所にあった三島神社(大山祇命を祭る)をここに合祀したといいます。
神社左手は、最初、高い土塁なのかと思いましたが、向こう側は平地になっていて、建物を置くため削平されただけのものでした。

正面にお城山が望め、砦のような雰囲気も無いわけではありませんが、城山までの距離が遠過ぎる気がします。
小木ノ城は大きなお城ですので、別の意味で何かを監視する目的なら有り得る場所かも知れませんが。。。
居館とは考え難いように思いました。
地図で確認すると、国道116号から薬師寺に至る途中の部分のことで、三島神社と比べると、より城山に近い場所にあります。現在は耕作地や住宅地になっているので、場所の特定は難しいですが、想定地の少し先には、謙信公の祈願寺であった薬師寺が存在します。
真言宗智山派 高名山 薬師寺(越後薬師霊場 第7番札所・越後新四国 第24番札所)


山門は出雲崎町の指定文化財になっています。

龍の彫刻が立派でした。

謙信公は、永禄3年の川中島の戦い前後から甲斐の武田信玄、駿河の北条氏康の調伏を祈って県内各地の大きな神社仏閣に祈願文を納めていますが、このお寺には永禄6年(1563年)7月18日付けの文章が残されているそうです。
また、小木ノ城主・松本氏寄進の弥陀三尊立像なども残されています。

宗祖様を祀った場所へ

土塁上にあるお地蔵様たち


宗祖様を祀る場所は、一気に階段を上がる小高い場所に設けられていました。
お寺の前に出ると、城山が手前の山に隠れて見えず、物見台に使われていた???。。。など、妄想が膨らみます。
昔からのお寺ですので、小木ノ城とも関わりが深かったものと思われ、そういう意味では、ここも居館と関わりが無かったとも言い切れない場所ですからね。
お寺の前の道はお城山へと続き、大手道と思われる道に直結していて、ある部分から一気に九十九折の細い山道になり、小木ノ城山荘の脇を通り現在の小木ノ城登城口に至ります。
小木ノ城を望める場所から見ると、この辺の耕作地に居館があってもおかしくない気もしますが、治水の行われていない当時は、この辺は沼地だったのかも知れないですから。


場所的には、お寺周辺に居館があっても不思議ではないと感じましたが、真相や如何に???
訪問日:2013年10月26日(土)
三島神社
まずは、JR小木ノ城駅の西南に位置する、船橋集落にある三島神社の境内へ。三島神社は、島崎川沿いの旧道やJRが望める、比高15mほどの小高い場所にありました。


三島神社

境内の様子

奥州征伐の折、源義家がこの地に八幡宮を創建したのが始まり。後に、別の場所にあった三島神社(大山祇命を祭る)をここに合祀したといいます。
神社左手は、最初、高い土塁なのかと思いましたが、向こう側は平地になっていて、建物を置くため削平されただけのものでした。

神社裏手には防御が無い感じ

虎口跡?


虎口跡?

正面にお城山が望め、砦のような雰囲気も無いわけではありませんが、城山までの距離が遠過ぎる気がします。
小木ノ城は大きなお城ですので、別の意味で何かを監視する目的なら有り得る場所かも知れませんが。。。
居館とは考え難いように思いました。
薬師寺
一方の薬師寺は、国道116号からの分岐点に、「小木ノ城入り口」の文字と共にセットで書かれた大きな案内看板が出ています。地図で確認すると、国道116号から薬師寺に至る途中の部分のことで、三島神社と比べると、より城山に近い場所にあります。現在は耕作地や住宅地になっているので、場所の特定は難しいですが、想定地の少し先には、謙信公の祈願寺であった薬師寺が存在します。
真言宗智山派 高名山 薬師寺(越後薬師霊場 第7番札所・越後新四国 第24番札所)


山門は出雲崎町の指定文化財になっています。

龍の彫刻が立派でした。

謙信公は、永禄3年の川中島の戦い前後から甲斐の武田信玄、駿河の北条氏康の調伏を祈って県内各地の大きな神社仏閣に祈願文を納めていますが、このお寺には永禄6年(1563年)7月18日付けの文章が残されているそうです。
また、小木ノ城主・松本氏寄進の弥陀三尊立像なども残されています。

宗祖様を祀った場所へ

土塁上にあるお地蔵様たち


宗祖様を祀る場所は、一気に階段を上がる小高い場所に設けられていました。
お寺の前に出ると、城山が手前の山に隠れて見えず、物見台に使われていた???。。。など、妄想が膨らみます。
昔からのお寺ですので、小木ノ城とも関わりが深かったものと思われ、そういう意味では、ここも居館と関わりが無かったとも言い切れない場所ですからね。
お寺の前の道はお城山へと続き、大手道と思われる道に直結していて、ある部分から一気に九十九折の細い山道になり、小木ノ城山荘の脇を通り現在の小木ノ城登城口に至ります。
小木ノ城を望める場所から見ると、この辺の耕作地に居館があってもおかしくない気もしますが、治水の行われていない当時は、この辺は沼地だったのかも知れないですから。


場所的には、お寺周辺に居館があっても不思議ではないと感じましたが、真相や如何に???
訪問日:2013年10月26日(土)
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