牧之島城跡|長野
2013年11月10日
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牧之島城
長野県史跡 昭和41年3月指定
この城は、永禄9年(1566年)武田信玄が、甲州流兵学者で、築城術に優れた馬場信房(美濃守)に築かせ、越後に対する警衛と更級・水内山部の鎮撫にあてた城です。もとは香坂(高坂)氏の城の一部で、犀川の大拗曲部を利用して新たに縄張りしたもので、虎口の丸馬出し、本丸脇の隠れ馬出し(千人枡)をはじめ、諸所に築城の妙をこらしています。
天正3年(1575年)5月21日、馬場信房が長篠に戦死後、子の信春が在城しましたが、天正10年に武田氏が滅亡すると、上杉景勝の属城となり、芋川親正親子などが置かれます。慶長3年(1598年)景勝が会津移風になると、海津城主・田丸直昌、森忠正等がここを菅し、慶長8年、海津城主となった松平忠輝は、はじめ老臣の松平信直に在城させますが、元和2年(1616年)忠輝が罪によって改易されると共に牧之城も廃城となり築城以来50年で城郭としての機能を失ってしまいます。
城は東側を除く3方を犀川がめぐり、東部一方が山部に続く舌状台地のほぼ中央にあり、自然の断崖絶壁と深谷を利用し、これに人口の堀を加えた平山城です。昭和49年(1974年)発掘調査が行われ、史跡公園として整備されています。

案内板にある絵図は古い時代(香坂氏時代)の牧之城縄張りで、現在残されいてるのは、馬場信房が手掛けたスタイルです。
城跡の一部は、道路を開くためと、崖崩れのために失われていますが、主要部は明確に残されています。
牧之島城跡散策
現在、駐車場も兼ねているのが、当時の馬出し部分です。綺麗な曲線を描く丸馬出しは、越後の城には無いスタイルで、思わずテンションも上がりますが、まずは大手入り口から。
丸馬出しの東側には大手口があったことが知られ、大手口から東に一様な屋敷跡を残しています。

大手空堀
馬出しの東西に通る深堀が大手空堀。まるで崩れてしまったのかと思うくらいに深く、堀というより渓谷的な雰囲気を醸し出していました。案内版には、この付近に枡形があると書かれていますが、現在は耕作地になっていて、当時を知ることは出来ませんでした。
大手堀から三日月堀に至る道々、左手下(南西側)には天然の外堀だった犀川が良く見えます。

左:枡形?|中:耕作地|右:犀川

丸馬出しと三日月堀

土塁と三日月堀

左:木橋|右:木橋と堀
三日月形の堀と、その内側に土塁跡が鮮明です。そこから本丸へは木橋が架かり、幅15mもあろうかという規模の大きな空堀があります。

千人枡形
木橋を渡った先、本丸東の高土塁の中程に、千人枡と称する隠れ枡形があります。
ちび子が入ると少し大きさもわかると思いますが、高土塁上に兵を潜ませ上から狙われたらひとたまりも無い場所で、ここまでの大手筋には甲州流築城法が満載です。


千人枡形を無事に突破出来れば本丸は真っ直ぐ目の前にありますが、先に高土塁の上から散策してみます。

本丸に向かい、左手土塁上に神社が祀られています。

反対側、右手の土塁上から本丸、二の丸を隔てる水濠を見ながらさらに進むと琵琶古跡神社があります。
牧之島城は、別名を牧城または琵琶城といったそうで、社名もそこからきているのでしょう。

琵琶古跡神社前から望む二の丸(左)本丸の北側に位置する二の丸は55×35m程の広さ。
二の丸から本丸へ至る木橋(右)木橋の先には小規模な枡形があります。

本丸、二の丸を隔てる水濠上から見た枡形の様子

枡形付近から本丸内の様子

2つある本丸への虎口には、常に綺麗な枡形が形成されていました。本丸西側には、水の手だった井戸跡があります。井戸後ろにある本丸西側の土塁は、東側に比べると高さこそ低くなりますが、それでも2~3mの高さがあり幅は東西共に分厚いですね。

西側は二重堀になっていて、その1つ1つの幅が10mはあり見事です。

土塁上に建つ「馬場信房之城址」の石碑。揮毫は、政治家で男爵の真田幸世氏のものです。高祖父は老中・松平定信。曽祖父は松代藩第8代藩主・真田幸貫。第8代将軍・徳川吉宗の男系子孫に当たるという改革尽くし(?)の家系の方です。

先ほどとは逆に、南側から本丸内の様子

本丸南隅からは、犀川の流れが良く見えます。そして、こちら側の土塁までの高さは見事なものがあります。

来た時とは逆に二の丸方向へ。左:本丸虎口|中:枡形|右:二の丸

左:二の丸の導線|中:至る大手(丸馬出し)|右:左側通路も二の丸のうち
二の丸の一部は、現在は生活道路が通っています。

分断された二の丸隅には菅原大神が祀られていて、その背後には郭らしきものも確認できます。

ここからは北側にある搦手方向の通路も監視できます。先ほど本丸の土塁上から見た西側の大きな空堀です。

さらに奥にある堀から城域に向いて撮ったもの。大規模な二重堀が構成されています。

おしまいに
規模の大きな空堀、水濠の両方を備え、丸馬出しや枡形などの技巧的な構造もよく残っていて代表的な甲州流城郭といえる城址なのではないでしょうか。訪城日:2013年10月14日(月)
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