attention admin about comments trackbacks you may also like

健御名方富命彦神別神社(善光寺横山城址)|長野

2014年01月09日

城址巡り
-
「善光寺奥の院」繋がりで訪れた駒形嶽駒弓神社。しかし、現地に出向き勉強すると、「式内名神大」「水内神社の奥社」など新しいワードが出てきて、話は複雑になりさらに勉強。

延長5年(927年)にまとめられた『延喜式神名帳』には「信濃国水内郡 健御名方富命彦神別神社 名神大」と記載されていましたが、その後所在がわからなくなってしまっています。鎌倉時代末期の「釈日本紀」では、健御名方富命彦神別神社が水内神社のことであるとしています。健御名方富命彦神別神社というのは、善光寺東側に位置する城山公園にある県社の正式名称で江戸時代までは善光寺の境内にあり、御歳宮と呼ばれていました。この御歳宮こそが、かつての水内神社ではないかという説もあり、善光寺詣でに行く度、東側にある「城山公園」が気になり調べてみたいと思っていたのですが、ようやくご縁が出来たようで再び訪れてみました。

城山とあるように、現在神社が祀られている場所は、南北朝期から戦国期頃にかけて城が築かれていた場所でもあるので、城址の話と神社の話、平行して進めて行きます。

善光寺 横山城

横山城は善光寺の東側一帯にあり城山公園といわれ、南北朝時代に築かれたとされている山城です。南北朝の騒乱時の観応2年(1351年)足利尊氏と直義兄弟間の争いで直義方の祢津宗貞が攻めるも落城しなかったといいます。
年代上がって戦国時代の弘治元年(1555年)7月、上杉・武田の第二次川中島の戦いでは、長尾景虎(上杉謙信)がここを本陣とし、犀川対岸の大堀館を本陣とする武田晴信と対峙します。景虎は栗田氏がこもる武田方の旭山城を封じ込めるため、裾花川対岸に葛山城を整備しますが戦いは長期化、今川義元の仲裁により和議が成立するまで二百日余りの膠着状態が続き、旭山城の破却などを条件に兵を引きます。この頃、武田の侵攻に抵抗していた長野市小市地域を本拠としていた小田切氏の与力に横山氏の名が見られることから、その居城となっていたと考えられています。その後も謙信は川中島に出陣するにあたり、横山城を陣域として武田軍との戦いに挑みます。永禄4年(1561年)最も激戦となった第四次川中島の戦いでは、妻女山に陣どった主力部隊とは別働隊がここ横山城と旭山城にいて、撤退する上杉軍の主力部隊の撤退を援護し、八幡原の激戦が終わると上杉政虎(謙信)は兵を横山城に収めたと伝えられています。このように横山城は、川中島の戦いにおいて上杉家の善光寺平の抑えとしての役割を果たしていました。しかし武田方の支配が北信一帯に及ぶようになると相木氏の勢力下となったとされ、武田氏滅亡後は上杉領となり、その後廃城に至ったようです。

横山城跡散策

この日のお昼が、仲見世にある「すや亀」さんの味噌おにぎりだったのでそれを頬張りながら東側へと移動。城山小学校の付近まで来ると、グラウンドの隅が土塁のようであり、向かいにある水路は掘跡のようであり、この付近から一帯が城郭であった雰囲気を感じます。

健御名方富命彦神別神社_善光寺横山城址

城山交差点まで来ると、善光寺と彦神社(城址)の位置関係が良く分かります。これじゃぁ謙信さん、善光寺から十念寺に寺宝を非難させるわけですよね。

健御名方富命彦神別神社_善光寺横山城址

善光寺東側一帯は城山公園として整備され、動物園やプール、少年科学センター、美術館などが点在し、春は桜の名所として多くの人々で賑わう場所になっています。広い公園内はすっかり姿を変え、遺構などは見られないようです。

神社石垣が見えてきました。

健御名方富命彦神別神社_善光寺横山城址

現在、神社の鳥居があるのでそちらが正面のような気がしますが、お城として機能していた場合、こんな風に平入りでは不都合なわけで、道路側からクランクして入る細道が虎口で、神社側と同じく城域であった蔵春閣との間には堀切があったのでは?と感じました。

健御名方富命彦神別神社_善光寺横山城址
左:現在の正面大鳥居|右:額は有栖川宮幟仁親王の揮毫

広い境内(二の郭)右手に社務所があります

健御名方富命彦神別神社_善光寺横山城址

二の郭は帯郭状になり東側へ

健御名方富命彦神別神社_善光寺横山城址

境内には、文政~明治まで、いろいろな年代の文人の石碑がありました。

健御名方富命彦神別神社_善光寺横山城址

私はよく存じあげない方ばかりだったのですが、中に1つ、芭蕉句碑を見つけました。

健御名方富命彦神別神社_善光寺横山城址

「月かけ(影)や 四門四州も 唯一ツ」

芭蕉
元禄元年(1688年)8月、松尾芭蕉が木曽路と更科の月見旅を楽しんだ際、善光寺に詣でて詠んだ句で、善光寺大本願、往生寺でも同じ句碑が見られます。

健御名方富命彦神別神社_善光寺横山城址

健御名方富命彦神別神社_善光寺横山城址
左:本丸へは3m程の高低差|中:神社(主郭)へ|右:矢竹の名残り?

横山城主郭(東西55m×南北35mほど)にある諏訪大明神の別宮といわれる健御名方富命彦神別神社。
江戸時代までは善光寺境内にありましたが、善光寺如来がお越しになって仏式となり、次第に神社としての勢いは失われ、善光寺の地神であった水内神は善光寺「奥の院」として祀られるようになります。明治12年に現在地に鎮座。同年6月に懸社となっています。

健御名方富命彦神別神社_善光寺横山城址

健御名方富命彦神別神社_善光寺横山城址
社額

健御名方富命彦神別神社_善光寺横山城址
縣社碑

健御名方富命彦神別神社_善光寺横山城址
拝殿前(主郭)の様子

健御名方富命彦神別神社_善光寺横山城址
本殿とその後ろ北側の土塁

健御名方富命彦神別神社_善光寺横山城址
地主大神

健御名方富命彦神別神社_善光寺横山城址
千幡社

健御名方富命彦神別神社_善光寺横山城址
木匠祖神社

健御名方富命彦神別神社_善光寺横山城址
明治天皇御手植の松

健御名方富命彦神別神社_善光寺横山城址
拝殿右側:明治天皇駐蹕之処の石碑と北側土塁

神社東側には、明治期の陸軍大将・乃木希典の揮毫という、明治天皇北陸巡幸の際の石碑がありました。
天皇は明治11年に行われた北陸巡幸の際、9月に長野にお泊りになっています。この丘の亭館において川中島四郡を眺め、「佳郷」とのお言葉を発せられたと、現地案内版にありました。後にこの亭館は「佳郷館」と名付けられましたが、明治24年の城山火災のため類焼し、その姿を見ることは出来ません。

健御名方富命彦神別神社_善光寺横山城址

明治天皇が長野に行幸したのが明治11年9月。善光寺の御歳宮が城山に移されたのは、それから僅か数ヵ月後の明治12年の正月というのも、興味深い点かも知れません。

石碑からさらに東側には、二の郭へと下る道が出来ています。私が最初に虎口では?と思った道から入り、主郭下の二の郭内を進み、クランクしてこの通路から主郭に入るのが本来の道筋だったのでは?と推測します。
主郭下の郭は、現在大きな駐車場スペースになっていますので、何処までが当時の郭なのかもわかりません。駐車場奥にある城山分室までが二の郭であるとすると1つの郭が非常に大きいです。

健御名方富命彦神別神社_善光寺横山城址

東側二の郭の淵に僅かに残る土塁跡らしき高まりや、その下に見られる腰郭の様子。謙信公や明治天皇が見たであろう、遠くの山々が僅かに往時を物語っているのかも知れません。

健御名方富命彦神別神社_善光寺横山城址

おしまいに

まさか謙信公に関する場所とは知らず、実際に歩いてみると、どれ程の豪族の城だったのだろう?と思わせるほどの大きな規模のお城でした。

登城日:2013年12月1日(日)
関連する記事
そふぃあ
Posted by そふぃあ
ご訪問ありがとうございます。管理人の体験談を心のままに綴ったブログです。
話題に時差あり、脱線もあり、時に辛口意見もございます。
私感強めな内容ですが、長年積み上げてきた情報満載!何かのお役に立てたなら幸いです。
※撮影した写真の著作権は放棄しておりません。画像のお持ち帰りは固くお断りいたします。

更新通知で新しい記事をいち早くお届けします