大峰城址|長野
2014年01月12日
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大峰城
築城時期は明確ではありませんが、天文年間の初期ともいわれています。大峰城は武田方の旭山城の向城として上杉方が築いた山城で、葛山城主・落合備中守が善光寺・戸隠別当の栗田氏を強く意識し、家臣・大峰蔵人に与えた城といわれています。天文22年(1553年)から5回にわたる川中島合戦で、大峰城を中心とする山城は甲越双方にとって最前線の突破口として、また守備陣地として重要であったため幾度か争奪戦が行われます。
弘治元年(1555年)第二回川中島合戦では、上杉謙信が善光寺横山城に陣を張り、信玄とよしみを通じていた善光寺別当職の栗田鶴寿は旭山城に籠もり武田方に加味し、信玄はそこに三千の兵や三百の銃を送り込んで支援します。そこで謙信は付け城である葛山城とこの大峰城を改修します。葛山城主である落合備中守の家臣・大峰蔵人が城主になったともいわれています。善光寺平一帯は武田方の支配下となり、大峰城も武田方のものとなりました。
大峰城址散策
駒形嶽駒弓神社への参拝で知った大峰城。神社付近からかなり登らなければ見学できないのかと思っていましたが、山頂部まで道が通り、駐車場も完備と聞いて、横山城址見学の後、日没までの僅かな時間見学となりました。
車を停めると、見事な石垣が目の前。模擬城門も備わり出迎えてくれます。この通路、もともとの主郭への通路だったようです。

主郭には立派な模擬天守が建っていますが、もとあった大峰城主郭跡地に、昭和37年(1962年)長野市が観光促進のために建設した入母屋殿館造り鉄筋コンクリート重層4階建ての建物です。

展望台として使用された後、昭和56年(1981年)「大峰城チョウと自然の博物館」となります。
しかし、昭和60年(1985年)地附山の地滑り災害により戸隠バードラインの一部が廃道となり、アクセスが悪くなったため来場者数が激減。平成13年(2001年)博物館の閉鎖が決まります。
標本の受け入れ先が見つからないまま平成19年(2007年)12月に博物館は閉鎖。博物館閉鎖に伴い、山頂までの道も閉ざされていたようですが、城入り口付近にある大峰斎場の建て替えにより、模擬天守が建設事務所となっているのですんなりと車で来る事が出来ました。
この城跡は山の尾根を利用したもので、大峰山の最高峰(828m:比高425m)に主郭を設け、その西北に二の郭、三の郭が続き、各郭は尾根に直角に切り割った深い空堀によって区画されています。各郭の西北端には土塁を築き上げて内部を隠した跡が残り、主郭は周囲に高く厚い堅固な土塁を巡らしています。
模擬天守向かって右側に、昔の道らしきものが残されていました。

模擬天守の真裏に分厚い土塁が確認できます。百葉箱の置かれた部分も土塁だったはずですが鉄柱などの設置で随分平になってしまっているようです。往時は土塁で囲まれた郭だったようです。土塁の向こう側は大きな空堀で尾根を断ち切り、向こうの二の郭と分断されています。

城全体の構造として、あまり大掛かりな仕掛けは無く、山頂部の細長い尾根を大きな空堀で断ち切った形式のお城で、郭の削平も甘く、お城の一番の見所はこの大きな堀跡といえるでしょう。


左:模擬天守左側主郭の様子|右:そこから見た模擬天守
主郭南西下、現在の駐車場部分も郭のひとつで、さらにその下方にも段郭が確認出来ます。

博物館だった当時は、4階の展望台から善光寺平の眺めがさぞ良かったことと思われます。駐車場付近からも眺められるのですが、日没近くてお天気も下り坂だったため、写真に撮りたくなるような絶景でなかったのが残念です。
駐車場まで戻り、車で来た道を徒歩で見学。
二の郭、三の郭と続く尾根を横に見ながら歩くと20m間隔程度に3つの大きな空堀を確認できます。

空堀は、それぞれに尾根の斜面に長い竪堀となって落ちていて、越後勢改修の雰囲気をそこはかとなく感じます。

南麓の霊山寺や、謙信公ゆかりの地もありますので、春以降、再び出掛けてみたい場所です。
登城日:2013年12月1日(日)
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