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妙行寺(みょぎょうじ)|柏崎

2014年03月12日

戊辰戦争関連
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先に訪れた「日本三大番神」のひとつ柏崎番神堂は、妙行寺の境外御堂ということで、そんなご縁から、日蓮宗・海岸山妙行寺にお邪魔しました。

日蓮宗の寺院「海岸山 妙行寺(みょぎょうじ)」

妙行寺は文永11年(1274年)3月の創立。宗祖である日蓮聖人が佐渡流罪を赦免され寺泊に着くべきところ、大嵐により番神岬に辿り着いたことにより、この地に法華堂を営み法修山妙行寺としたことに始まります。
また、日蓮聖人の下宿先となった真言宗大乗寺の住職は、聖人の教えに感化され日蓮宗に改宗し、日心の法号を与えられました。

妙行寺

▲写真に見える大きな建物は「日本海の天守閣岬館」で、番神堂はその脇に見える白い矢印部分になります。

妙行寺

慶長2年(1597年)の地震で倒壊してしまったため現地(西本町)に移り、翌年の慶長3年(1598年)に海岸山大乗寺を番神堂と改め、妙行寺と大乗寺を併せて「海岸山妙行寺」と改称し現在に至ります。

妙行寺
左:日蓮聖人七百遠忌報恩塔|中:日蓮聖人像|右:三十番神碑

妙行寺

現存する妙行寺のご本堂は、今から約250年前の宝暦13年(1763年)の建立。初代番神堂を造ったことでも有名な大工の名棟梁、初代・二代篠田宗吉の合作によるもので、明治期の大火をも免れ、歴史的建造物の姿を今に残しています。

ご本堂は昭和60年(1985年)に大改修され、庫裡も平成18年(2006年)に全面的な改修工事がされています。
修復は、歴史的資料を残して行われています。

妙行寺

この日、ご本堂は施錠されていましたので、ここまで拝見すると外からお参りし帰ろうかと思いながらも、まだ境内の写真を撮っていました。丁度、車庫にご用だったらしく、お寺の奥様がこちらに出て来られた姿を見つけ、思い切って、お堂の中を拝見できるか訪ねてみると、快く中へ入れてもらうことが出来ました。

本堂外は冬囲いがされているのでよくはわかりませんでしたが、一歩入ると、その重厚な雰囲気に感動!そして、御本尊様にお参りもしないうちから目的の部屋へ案内していただき、申し訳ない気持ちでいっぱいながら、有難く拝見させていただきました。

官軍本陣となった妙行寺御本堂

慶応4年(1868年)の戊辰戦争の際、妙行寺本堂は新政府軍(官軍)の本陣となった場所なのです。

本堂の一角に、当時のままの姿で残されているのは、新政府軍・加賀藩兵が残したといわれる落書き。日柳燕石(くさなぎえんせき)もこの兵士として参加し、落書きを残しているそうです。

妙行寺

窓側に見える板壁には大きく「御礼」と書かれ、擦れて読めなくなった小文字多数。
長押には「仁和寺宮御旗丕(?)」続けて「兵隊三番分隊休所 慶応四辰年七月十五ヨリ八月十一日迠 御滞陣し事」のように読めました。

妙行寺

写真は、奥様の了解を得て撮影させていただきました。

境内地にて

地域を守った星野籐兵衛

幕末の大動乱である戊辰戦争は大きく「鳥羽・伏見の戦い」「北越戦争(東北戦争・会津戦争ともいわれる)」「函館戦争」の三つに分けられますが、この北越戦争の一局面として、「鯨波戦争」と呼ばれる戦いが行われました。
にも関わらず、それ以前からあるお寺や柏崎が無事であったのは何故か?加賀藩兵の残した「御礼」は何を意味するのか?それは、星野籐兵衛氏があってのことでしょう。

妙行寺墓地

柏崎で代々酒屋、質屋を営んでいた星野家は、文政年間(1818-1830)に家勢が俄かに良くなり、6代目の時になると苗字、帯刀を許され、桑名藩柏崎陣屋御用達の豪商として知られていました。勤皇の士といわれた星野籐兵衛は、星野家九代目・輝文(1828-1876)のことで、戊辰戦争の際、新政府軍と旧幕府軍に働きかけ、柏崎を戦火から救うために奔走しました。
慶応4年(1868年)の鯨波戦争で、鯨波村は全焼しましたが、柏崎町は兵火から逃れ、山懸有朋、黒田清隆に率いられた新政府軍は妙行寺に入り本陣とします。この間、妙行寺檀徒でもあった藤兵衛は私財を投げ出し、兵糧92万食をはじめとする軍資を提供しました。(現在の貨幣価値に換算すると10億円相当ともいわれ、お寺にも支援物品の記録が残されているそうです。)そのお陰で柏崎は戦火から免れたのです。有名な長岡、会津の戦闘も、妙行寺を本営として行われています。

藤兵衛の貢献ぶりが新政府に認められ、後に新設された民政局の御用掛と町村取締役を命ぜられます。
しかし、この時の莫大な借財と生糸取引の失敗などを経て、晩年は剣野山の御殿楼で余生を送り、明治9年に享年49歳でこの世を去っています。時代の移り変わりに上手に立ち回ったとする見方もありますが柏崎にとっての恩人に変わりは無いですね。

そういうご時勢だったとはいえ、内戦で人と人が傷つくのを好む人はいませんから自分の全てを投げ出してまで、住む町、住む人々を守った籐兵衛氏に敬意を表し、新政府軍も「御礼」の文字を残したのではと、個人的に妄想しました。

戊辰の役戦死者の墓

妙行寺墓地には、戊辰の役戦死者のお墓があります。

桑名藩・吉村権左衛門の墓
吉村は桑名藩の家老職を務めた人物。藩主・松平定敬を追って柏崎に入り、度々恭順を定敬に説いたため藩内抗戦派の反感を買い、慶応4年(1868年)閏4月3日夜、暗殺されています。(享年49歳)
吉村の暗殺直後に江戸の部隊が到着し300人の藩士は抗戦を決意しています。

妙行寺墓地

加賀藩・水野徳三郎の墓
和島の妙法寺裏山で慶応4年(1868年)6月24日に戦死した官軍隊長の墓です。(享年38歳)

妙行寺墓地

その両隣には、小ぶりな墓石が二基。向かって左は加賀藩兵・今村久太郎義忠(享年18歳)
水野隊長と同じ日、同じ妙法寺周辺で亡くなっています。
向かって右は加賀藩兵・山下勇太夫(享年21歳)
慶応4年(1868年)6月2日、妙法寺から程近い島崎にて負傷し、4日に柏崎病院で亡くなっています。

妙行寺墓地

この三基と一緒に、加賀藩隊長・堀大之助の墓もありました。(享年38歳)
慶応4年(1868年)5月1日、柏崎市両田尻付近で亡くなっています。

慶応4年=明治元年のことですが、お寺に残された官軍落書きに「慶応四年」とあることから、今回は全て「慶応4年」と統一して記しています。


実は数年前、妙法寺塔頭のご住職さまとお話する機会があり、山城散策で知った風間信濃守信昭公について質問してみたことがありました。話の流れからその塔頭は、「天地人」に関係するお寺でもあることが判明しました。ドラマ放映当時はマスコミからも取材依頼があったのだそうですが、戊辰戦争でお寺の過去帳も焼失しているため、ご住職さまでさえ、その詳細が不明であると話して下さったことを思い出しました。

鯨波の戦いの後、「妙法寺の戦い」と言われるさらに小さな一局面があり、柏崎から退却して来た会津藩兵らが地雷火を仕掛けて妙法寺に陣取りますが、新政府軍の銃撃により、辺り一円は火の海と化してしまいます。
水野隊長の墓を見つけたことで、歴史の点と点が線になった瞬間でした。

柏崎常盤高等学校発祥の地

妙行寺

日蓮聖人の歴史、戊辰戦争の歴史と共に、ここは柏崎常盤高等学校発祥の地でもあります。
明治36年(1903年)6月8日 妙行寺にて開校。初めは「読み」「書き」「そろばん」「裁縫」など女子が身につける基本的なものが主であったと思われますが、次第に女子教育にも力を入れ県立高校へと発展して行きます。昭和51年(1976年)には男女共学校になっています。

--- Sunday, February 2, 2014 ---
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そふぃあ
Posted by そふぃあ
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