柏崎招魂碑及び戊辰墓石群ほか|柏崎歴史散歩
2014年03月13日
-
明治6年秋に創立された現在の柏崎市立柏崎小学校。その周辺には歴史を感じるものが点在しているので、少し散策してみました。
左側に見える補強された1本は多面に渡り『左 奥州通 新潟 長岡道 右 東京 西京通』などと書かれ、かなり朽ちて読めない部分も。

一方、右側に見える1本には嘉永四年秋八月の文字が刻まれていることから、幕末期の1851年に建てられた?『右 三国道 小千谷十日町道』と記されていました。(▼写る道路は国道352号)


明治天皇は6回の巡幸を行っていますが、明治11年の巡幸では北陸・東海を巡られています。この巡幸では、岩倉具視、大隈重信、井上馨、大山巌など、錚々たる顔ぶれが供奉していたといいます。ここには2階建ての和風木造家屋が存在していましたが、昭和48年(1973年)小学校改築に際して解体されています。
そして、この柏崎小学校の一角に、柏崎招魂碑と戊辰墓石群などがあります。

生田萬(よろず)は、天保8年(1837年)6月、折からの天保飢饉による窮民の救済を求めて柏崎陣屋に討ち入り、破れて自刃しています。世間を憚って長い間墓が建てられなかったのですが、明治32年(1899年)になって招魂社の片隅に建立されました。他にも、生田萬埋骨塔や天保4年(1833年)の飢餓による餓死者の供養塔などが見られ、これらの石碑は江戸時代の火葬場にあったものを、大正時代になって生田遺跡保存会が移転、整備したものです。


明治元年(1868年)10月20日に、戊辰戦争の鯨波や長岡の戦いで戦死した官軍各藩士58名の招魂所として建設された墓地です。

妙行寺でも名前の出て来た、江戸時代末期の志士、仁和寺宮従士・日柳燕石の墓がありました。

日柳燕石は、文化14年(1817年)讃岐の生まれ。俠気で知られ、千人を超える郷党浮浪の徒の首領となり博徒の親分としても知られていました。勤王の志篤く、天下の志士とも交わりました。
慶應元年(1865年)、長州の高杉晋作が幕吏に追われ榎井村の燕石を頼って亡命したのをかくまい潜匿、逃亡させたことから嫌疑を受け、高杉の身代りに4年の間高松の獄に幽せられています。明治元年(1868年)正月に出獄し、直ちに京都に上って書を奉じると、朝廷は召して御盃を賜い燕石を桂小五郎と共に西国地方に周旋させます。その後の明治元年(1868年)、仁和寺宮遠征に従い、秘書兼軍日誌記録を掌り越後入りしますが、4年という投獄生活が災いしたのか、柏崎にて病に倒れ8月25日 市川邸にて亡くなります。享年52歳。墓石に「大桜定居彦」の文字が見られますが、これは仁和寺宮が贈ったものだそうです。墓はここに建ちますが、爪髪は故郷香川の先祖からの墓所に「日柳燕石士煥の墓」としてあるそうです。

招魂所は、当初の6分の1ほどに縮小されて、現在は44基の墓と1基の供養塔が存在しています。現地案内版には、薩摩藩の中原猶介のものもあると書かれているのですが幾ら探しても、薩摩藩の墓石は1つもありませんでした。きっと、時代の流れの中で移されてしまった14基の中の1つに含まれているのでしょうね。

さらに右側。加賀藩兵のものを中心に、川越藩などの文字も見られました。

こちら側に集められた墓石は、7月に与板で、9月~10月に朝日、津川などで負傷した兵士たちが、寺泊や柏崎の病院へ移された後に亡くなっている人たちのものでした。1基、最初の文字が焼かれたようになって読めないものがあったのですが、同年9月頃、新潟から鶴岡城に向かった小倉藩兵のものでは?と思います。
藩名を見ても各地から、年齢も18~50歳過ぎまで。
そのような情報が全て墓石に刻まれているので、1つ1つ確認しながら戦の恐ろしさを実感しました。
訪問日:2014年3月1日(土)
北陸道(三国街道)の道標
柏崎小学校向かいに位置する柏崎ふるさと人物館の敷地内で見つけた北陸道(三国街道)の道標。左側に見える補強された1本は多面に渡り『左 奥州通 新潟 長岡道 右 東京 西京通』などと書かれ、かなり朽ちて読めない部分も。

一方、右側に見える1本には嘉永四年秋八月の文字が刻まれていることから、幕末期の1851年に建てられた?『右 三国道 小千谷十日町道』と記されていました。(▼写る道路は国道352号)

行在所碑
街道筋にあたるこの地、標柱から道路を挟んで向いにある柏崎小学校の敷地内には、明治11年(1878年)の明治天皇北陸巡幸の折の「行在所」碑がありました。
明治天皇は6回の巡幸を行っていますが、明治11年の巡幸では北陸・東海を巡られています。この巡幸では、岩倉具視、大隈重信、井上馨、大山巌など、錚々たる顔ぶれが供奉していたといいます。ここには2階建ての和風木造家屋が存在していましたが、昭和48年(1973年)小学校改築に際して解体されています。
そして、この柏崎小学校の一角に、柏崎招魂碑と戊辰墓石群などがあります。
生田萬の墓碑と供養碑6基
昭和48年8月市指定文化財記念物・史跡
生田萬(よろず)は、天保8年(1837年)6月、折からの天保飢饉による窮民の救済を求めて柏崎陣屋に討ち入り、破れて自刃しています。世間を憚って長い間墓が建てられなかったのですが、明治32年(1899年)になって招魂社の片隅に建立されました。他にも、生田萬埋骨塔や天保4年(1833年)の飢餓による餓死者の供養塔などが見られ、これらの石碑は江戸時代の火葬場にあったものを、大正時代になって生田遺跡保存会が移転、整備したものです。

忠魂碑
さらに一段高くなった場所に日露戦争の慰霊碑があり、忠魂碑を中央に、その両脇を囲むように戊辰戦争官軍戦死者の墓が整然と並んでいます。
戊辰墓石群45基
鎮魂塔と共に昭和48年8月市指定文化財記念物・史跡明治元年(1868年)10月20日に、戊辰戦争の鯨波や長岡の戦いで戦死した官軍各藩士58名の招魂所として建設された墓地です。

妙行寺でも名前の出て来た、江戸時代末期の志士、仁和寺宮従士・日柳燕石の墓がありました。

日柳燕石は、文化14年(1817年)讃岐の生まれ。俠気で知られ、千人を超える郷党浮浪の徒の首領となり博徒の親分としても知られていました。勤王の志篤く、天下の志士とも交わりました。
慶應元年(1865年)、長州の高杉晋作が幕吏に追われ榎井村の燕石を頼って亡命したのをかくまい潜匿、逃亡させたことから嫌疑を受け、高杉の身代りに4年の間高松の獄に幽せられています。明治元年(1868年)正月に出獄し、直ちに京都に上って書を奉じると、朝廷は召して御盃を賜い燕石を桂小五郎と共に西国地方に周旋させます。その後の明治元年(1868年)、仁和寺宮遠征に従い、秘書兼軍日誌記録を掌り越後入りしますが、4年という投獄生活が災いしたのか、柏崎にて病に倒れ8月25日 市川邸にて亡くなります。享年52歳。墓石に「大桜定居彦」の文字が見られますが、これは仁和寺宮が贈ったものだそうです。墓はここに建ちますが、爪髪は故郷香川の先祖からの墓所に「日柳燕石士煥の墓」としてあるそうです。
戊辰戦争官軍共同墓地
卒塔婆も見られ、ここまで供養に来られる御親族もあるようです。
招魂所は、当初の6分の1ほどに縮小されて、現在は44基の墓と1基の供養塔が存在しています。現地案内版には、薩摩藩の中原猶介のものもあると書かれているのですが幾ら探しても、薩摩藩の墓石は1つもありませんでした。きっと、時代の流れの中で移されてしまった14基の中の1つに含まれているのでしょうね。

さらに右側。加賀藩兵のものを中心に、川越藩などの文字も見られました。

こちら側に集められた墓石は、7月に与板で、9月~10月に朝日、津川などで負傷した兵士たちが、寺泊や柏崎の病院へ移された後に亡くなっている人たちのものでした。1基、最初の文字が焼かれたようになって読めないものがあったのですが、同年9月頃、新潟から鶴岡城に向かった小倉藩兵のものでは?と思います。
藩名を見ても各地から、年齢も18~50歳過ぎまで。
そのような情報が全て墓石に刻まれているので、1つ1つ確認しながら戦の恐ろしさを実感しました。
訪問日:2014年3月1日(土)
関連する記事