長興寺にて|長岡
2014年03月23日
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山本五十六元帥も眠る長興寺にて
曹洞宗のお寺 普嶽山 長興寺にお邪魔しました。元和4年(1618年)牧野忠成公の越後長岡藩移封に伴い、上野国大胡藩の有鷲山長興寺が随行し、長岡城下稽古町に建立したお寺です。地名のとおり、以前この付近は武士が武道の稽古に励んだ場所だったそうです。
長岡藩家老家の稲垣氏 、山本氏などの重臣諸家の代々の菩提寺であり、良寛の愛弟子・孝室貞心尼の生家、奥村家の菩提寺でもあります。

先に訪れたお寺でも触れていますが、この辺りのお寺は戊辰戦争で焼けているため、歴史の古いお寺でも、鉄筋のモダンな造りになっていることが多いです。

烏沙宮(うさぐう)
「(なんのねがいでも)萬願即得」「(なんの病気でも)萬病即治」と書かれていました。
他に詳しい説明が無いのですが、珍しい「烏」の字が付くことからも、浄化の神・うすさま(烏枢沙摩明王)が祀られているのかも知れません。この神は、胎児を男児に変える力を持つとされているので、男児を求めた時代には厚く信仰されたといいます。先に述べたように、武士が稽古に通った場所であることからも、男児を望むお武家さんが、熱心に参拝した場所だったのかも知れませんね。(お百度を数える木札が供えてありましたし。)

制作年代も大きさも違う狛犬さんが三対。雪をかぶって寒そうでした。

我が家の方は車道には消雪機能が付いているので、実際にどのくらいの積雪になっているのか?生活していてもあまり実感のない時もあります。しかし、全く手を入れていない部分で、改めてその多さを知ることも。
短めブーツしか履いていなかったのに、膝上まで潜る雪の多さに、この日はお墓参りは断念しました。
積雪のために出直しました

1週間後、再びお邪魔しました。積雪も格段に減っていました。
お寺から病院が見える景色も、あと数年でなくなる事でしょう。

山本家の墓
あまりにも有名な方の墓地なので、雪の上の足跡を辿れば、何の苦も無くその場所まで到着でした。


歴代の法名が書かれた石板がありました。

ここにある山本家の墓石は13基。その中央に2基、この方々が。(左:山本帯刀|右:山本五十六)

長岡藩家老職であった山本家は、武田信玄の軍師・山本勘助の血筋で、代々、藩主・牧野氏に仕え、正治、文政に尽くしました。特に山本老迀斎精義(ろううさいきよよし)は、名家老と称され、歴代の藩主6代に渡り50年間補佐し続けた人物です。(寛政4年(1792年)1月没 享年75歳)
山本帯刀義路(たいとうよしみち)は、幕末の戊辰戦争で大隊長として奮戦した人物で、会津飯寺の戦いで生捕りにされ「藩主われに戦いを命ぜしも、未だ降伏を命ぜず」として降伏を拒否したため斬首されています。(明治元年(1868年)9月8日没 享年24歳)
山本五十六元帥は、旧長岡藩士・高野家から山本家を継ぎました。
はやくから航空機の重要性を説き、連合艦隊司令長官として近代戦を指揮しました。
太平洋戦争で真珠湾攻撃の指揮を執り、昭和18年(1943年)4月18日南瞑に散華しています。(享年59歳)

稲垣平助の墓
長岡藩筆頭家老の稲垣家は、藩主・牧野公の三河在住以来、随従して苦労を共にし藩主をよく補佐しました。長興寺は、稲垣家によって興されています。代々平助を称とし、家禄は江戸末期で二千石でした。幕末の平助重光は、北陸戊辰戦争の際に勤皇恭順説を唱えたことで、藩中に孤立します。その6女・鉞子(えつこ)は、アメリカに渡り「武士の娘」などを著しています。

先祖・稲垣権右衛門成長は、元和元年(1615年)大阪夏の陣において戦功があり、高千百石を賜り家老職に任ぜられています。元和4年に三河国八名郡牛久保(現在の愛知県豊川市)より藩主・牧野忠成公に供して長岡に移り住み、現在は14代目のお名前が見られます。

牧野平左衛門家の墓
平左衛門家の元祖。後に改名し牧野五兵衛は、松井金七郎正時といい、元は松井氏の流れでした。
天正18年(1590年)参州牛久保から上州大胡へ牧野成定が徳川家康公に伺候、牧野姓と三葉柏紋を拝領しています。
妻は稲垣平右衛門長茂の嫡女。(慶応元年(1865年)12月15日上州大胡にて没)

酒井晦堂(かいどう)の墓
酒井貞蔵は、代々の長岡藩士の家に生まれ、通称を「貞蔵」「晦堂」と号しました。藩校 崇徳館の造士寮長(現在の学生寮長)となった人物です。奥羽越の同盟が成立して新政府に対抗しようとした際、晦堂は藩士を荒らしてはいけないことを上申しますが、藩論は戦いに決し、説得は徒労に終わってしまいます。晦堂は悲しみながらも、死を覚悟で戦場に赴き、戦死してしまいます。才能ある息子が、40歳という若さで逝ってしまったことを悲しんだ父親が戦死の地に碑を建立し、後にこの地に移されています。

堀口大學の墓
堀口大學は、長岡が生んだ世界的な詩人です。平和をこよなく愛したため、戦時中は余儀なく発表禁止同様の憂き目に遭いました。堀口家は代々、長岡藩士でした。長岡中学、慶応義塾に学び、外交官の父に従い世界各国を回りました。新誌社に入り、詩作を続け「月光とピエロ」「砂の枕」「人間の歌」などの詩作が刊行され、「月下の一群」などのフランス現代詩の紹介をしました。(昭和56年(1981年)3月15日没 享年89歳)
墓碑の前には「新春 人間に」が掲げられていました。

訪問日:2014年2月22日|3月1日
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