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蒼柴神社周辺にて|長岡

2014年05月18日

戊辰戦争関連
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悠久山 蒼柴神社

三代長岡藩主・牧野忠辰公を祀った蒼柴神社のある悠久山内には、牧野家ゆかりの墓所ならびに戊辰戦争関連者を祀った場所などが点在しています。

蒼紫神社

小林病翁の碑

三の鳥居潜ってすぐの場所には、「米百俵」でも有名な小林虎三郎の碑があります。病弱だったため、虎三郎は自らを病翁(へいおう)と号しました。

蒼紫神社

小林虎三郎は佐久間象山(しょうざん)門下の二虎といわれ、吉田松陰とともに寄世の学識と大胆な行動力によって高く評価された人物です。
戊辰の役のあと長岡藩大参事となり、病身をおして疲弊した郷土の復興に尽くします。とりわけ教育の重要性を唱え、藩士の困窮を憂いて三根山藩から贈られた百俵の米をもとに三島億ニ郎らとともに開設した国漢学校の設備充実につとめ教学の府長岡の礎を築きあげました。

蒼紫神社

篆額(てんがく)は、越後長岡藩牧野家15代である牧野忠篤子爵。撰ならびに書は、近代長岡の漢学者、高橋翠村の手によるものです。

招魂社

北越戊辰の役と西南の役の旧長岡藩士犠牲者が祭祀されています。社殿は明治7年6月に造営され、現社殿は大正元年9月に改築のものです。

蒼紫神社

戊辰の役では、旧藩総監の河井継之助、大隊長の山本帯刀ほか三百余柱。西南の役に官軍として従軍、戦死された旧藩・池田九十朗ほか十七柱の神霊が祀られています。額の書は牧野忠篤子爵のもの。

蒼紫神社

山本帯刀の墓所は五十六とともに長興寺に存在します。

蒼紫神社

山本五十六ゆかりの物と言われている機雷と魚雷が置かれています。

蒼紫神社

二列に渡り42基の墳墓が整然と並んでいます。例年、長岡落城の日(5月19日)に慰霊祭を行います。

蒼紫神社

長岡藩主御霊廟

蒼紫神社

▲写真は二代忠成公(右)と初代第一子光成公室(左)のもの
長岡7万4千石牧野藩主は、寛永18年(1641年)三代将軍・徳川家光公より土地(江戸三田)を賜り、済海寺(東京都港区三田)を菩提所としましたが、昭和58年に由あって御祭神のもとに墓碑を安置しました。

蒼紫神社

初代を除く歴代藩主、零室、子女の墓碑が安置されています。

蒼紫神社

長岡藩主牧野家は三河牧野の地(愛知県豊川市内)に興り、のち牛久保城(同市内)に居城しました。
永禄9年(1566年)徳川家康に服属し、天正18年(1590年)家康の関東入りに従い上州大胡(群馬県勢多郡大胡町)に移り、その後越後長峰を経て元和4年(1618年)長岡城主として7万4千石を領します。
明治元年の戊辰戦争後、同2年第13代忠毅公の版籍奉還に至るまで変ることはありませんでした。

初代・忠成(ただなり)-光成(みつなり)-2代・忠成(ただなり)-3代・忠辰(ただとき)-4代・忠寿(ただかず)-5代・忠周(ただちか)-6代・忠敬(ただたか)-7代・忠利(ただとし)-8代・忠寛(ただひろ)-9代・ 忠精(ただきよ/阪城代・京都御所司代・老中(寛政の遺老の1人)-10代・忠雅(ただまさ)-11代・忠恭(ただゆき)-12代・忠訓(ただくに)-13代・忠毅(ただかつ)-14代・忠恭(ただゆき)-15代・忠篤(ただあつ|初代長岡市長)

摂社

蒼紫神社

蒼紫神社
祖霊社

天満宮:昭和元年御大典奉祝として太宰府天満宮より勧請(中沢中村正康家)の社を悠久山二百年記念として遷座したもの。
稲荷神社:京都伏見稲荷大社より勧請(新潟女池新田家)の神殿を平成13年今上天皇御即位十年を寿ぎ遷座されたもの。

訪問日:2014年5月4日(日)
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そふぃあ
Posted by そふぃあ
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