秩父札所めぐり|甲午歳総開帳・その1
2014年06月19日
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この日の秩父旅の目的は天然かき氷。開店前から並び食べ終えたのが10時半だったので、その後は少しだけ秩父のお寺巡りをしました。
今年は、ちび子年女の「午年」。
馬は観音様の眷属(けんぞく=神の使者)であることから、今年は日本百番観音 秩父34ヶ所観音霊場の総開帳の年にあたり、3月1日~11月18日まで普段は秘仏としてある観音様を、目の当たりに参拝できます。
秩父の地理に詳しくは無いのですが、氷屋さんからも比較的近かったので1番札所から訪ねてみました。
駐車場に車を停め、門へと進もうとすると「旅籠一番」というお宿が目に留まります。創業江戸時代という、1番札所の門前宿として栄えてきた純日本造りのお宿の姿は往時を偲ばせます。

寺名前の由来は、法華経四万部の仏典を書写して経塚を築いたことから伝わります。妙音寺とも呼ばれ、秩父札所観音霊場34ヶ所は、ここから始まります。

山門を潜ると、正面奥に観音堂が端然と建っているのが見えます。境内にある石灯籠は文昭院(6代将軍・徳川家宣)と有章院(7代将軍・徳川家継)/ 増上寺のものが1基ずつ。七観音の梵字が彫ってある功徳石。重くて廻すのに力がいりました。

「施食殿」の大きな額が掲げられているのは、享禄4年(1531年)より毎年8月24日に大施食会(だいせじきえ)の法供養を厳修するためのお堂で、関東三大施餓鬼の一つに数えられています。お施餓鬼をするためのお堂は全国でも珍しいものです。
訓読すれば「餓鬼に施す」=死後に特に餓鬼道に堕ちた衆生のため、食べ物を布施してその霊を供養する儀礼を指します。
中心の八角輪蔵は衆僧の読経を共に回転し、お施餓鬼は先祖の霊、水子の霊を供養するばかりでなく、蚕の霊、牛馬家畜、ペットの霊を供養することでも有名です。
昭和33年3月県指定文化財にもなっている御本堂は、三間四面、表一間に向拝をふした入母屋造り。造営については、元禄10年、宝暦6年、文政13年寺造営から補修の経緯が明瞭で、秩父きっての名匠・藤田徳左衛門吉久の建造とされます。

江戸時代の作と伝わる御本尊は「聖観世音菩薩」立像一本造り。本堂天井には、狩野常信の弟子・抱素斉休古常曜益之が描いた龍画があります。
本堂正面欄間の「地獄極楽」の彫刻

昔、性空上人が弟子の幻通に「秩父の里へ仏恩を施して人々を教化しなさい。」と命じました。幻通はこの地で四萬部の佛典を読誦して経塚を建てました。四萬部寺の名前はこれによるものです。

平和の鐘には、秩父郡市出身の一千霊の名前が刻まれていて、この鐘を静かに撞くことによって、その音色で英霊を慰めるといいます。我が家も1人1回ずつ撞かせていただきました。
『ありがたや 一巻ならぬ 法のはな 数は四萬部の 寺のいにしえ』
門の両脇に、仁王様が出迎えてくれます。

一段高くなった、見晴らしの良い丘の中腹に観音堂があります。本堂は弘化4年(1847年)に焼失し、安政5年(1858年)に再建されたものです。

母親が子どもを抱いているような珍しい形の子持石。子授けの御利益があるそうです。
またその昔、ご住職が重い病気で寝ていた時、夢に現れた観音様から「境内の水を服用せよ」とのお告げがあり、そのとおりにすると病気が治ったといい、境内には長命水と呼ばれる水があります。また、境内には文昭院(6代将軍・徳川家宣)/ 増上寺の石灯籠がみられます。

宝形屋根、三間四間、表に一間の大唐破風の現在の観音堂。それ以前は五間四面の大きなものでしたが、弘化年間に焼失したため明治3年(1870年)秩父神社の境内にあった蔵福寺の薬師堂を移築したもので、1番札所、四萬部寺の観音堂を作った秩父の名匠・藤田徳左衛門の造営とされます。高さ1m弱の御本尊は、室町時代の作と伝えられる聖観世音菩薩の木彫像です。
観音堂向拝の彫刻が素晴らしく、場所により名入り部分も確認できます。

特に見事なのが、海老虹梁に施されたカゴ彫細工!!!

3番札所 常泉寺 御朱印

『補陀らくは 岩本寺と おがむべし 峰の松風 ひびく滝つせ』

大きな草鞋のかかる朱塗りの仁王門が印象的です。

仁王門上には四国三十三観音が見られます。

門を潜ると、境内は無数の石仏群で埋め尽くされています。

境内には文昭院(6代将軍・徳川家宣)/ 増上寺の石灯籠が見られます。また、宝永年間より、全国に分布する信者により菩薩供養のため奉納された石仏が一千体余り見られ圧巻です。中には「酒飲み地蔵」なども。

その昔、この地に荒木丹下という怪貧者あり、ある日旅の巡礼、食を乞いしところ神国の米を仏に供するいわれはないと打ちいためれば、娘は「人は神の末なり妾もまた人なるを踏みたたくは神を踏むに同じなり、神は皇親の心を教え、仏は自他平等を説かれたり」とねんごろに説けばついに丹下志を改め、自ら入道となり本尊供養に専心したという縁起があります。

御本堂は三間四面、唐風の江戸中期の建築。御本尊は、室町時代 行基菩薩の作と伝わる 高さ107cmの十一面観世音立像。

【慈母観音像】 宗朝様の形式を持つ子育観音です。

無心な赤子、優しい表情の母親。女性が子育ての中で、一番喜びを感じる瞬間ですね。暑さを忘れ、見ているこちらまで優しい気持ちになれました。
『あらたかに まいりておがむ かん世音 二世安楽と 誰も祈らん』
--- Sunday, June 1, 2014 ---
今年は、ちび子年女の「午年」。
馬は観音様の眷属(けんぞく=神の使者)であることから、今年は日本百番観音 秩父34ヶ所観音霊場の総開帳の年にあたり、3月1日~11月18日まで普段は秘仏としてある観音様を、目の当たりに参拝できます。
秩父の地理に詳しくは無いのですが、氷屋さんからも比較的近かったので1番札所から訪ねてみました。
駐車場に車を停め、門へと進もうとすると「旅籠一番」というお宿が目に留まります。創業江戸時代という、1番札所の門前宿として栄えてきた純日本造りのお宿の姿は往時を偲ばせます。

1番札所 四萬部寺
その1番札所である、曹洞宗のお寺「誦経山(ずきょうさん)四萬部寺(しまぶじ)」。寺名前の由来は、法華経四万部の仏典を書写して経塚を築いたことから伝わります。妙音寺とも呼ばれ、秩父札所観音霊場34ヶ所は、ここから始まります。

山門を潜ると、正面奥に観音堂が端然と建っているのが見えます。境内にある石灯籠は文昭院(6代将軍・徳川家宣)と有章院(7代将軍・徳川家継)/ 増上寺のものが1基ずつ。七観音の梵字が彫ってある功徳石。重くて廻すのに力がいりました。

「施食殿」の大きな額が掲げられているのは、享禄4年(1531年)より毎年8月24日に大施食会(だいせじきえ)の法供養を厳修するためのお堂で、関東三大施餓鬼の一つに数えられています。お施餓鬼をするためのお堂は全国でも珍しいものです。
訓読すれば「餓鬼に施す」=死後に特に餓鬼道に堕ちた衆生のため、食べ物を布施してその霊を供養する儀礼を指します。
中心の八角輪蔵は衆僧の読経を共に回転し、お施餓鬼は先祖の霊、水子の霊を供養するばかりでなく、蚕の霊、牛馬家畜、ペットの霊を供養することでも有名です。
昭和33年3月県指定文化財にもなっている御本堂は、三間四面、表一間に向拝をふした入母屋造り。造営については、元禄10年、宝暦6年、文政13年寺造営から補修の経緯が明瞭で、秩父きっての名匠・藤田徳左衛門吉久の建造とされます。

江戸時代の作と伝わる御本尊は「聖観世音菩薩」立像一本造り。本堂天井には、狩野常信の弟子・抱素斉休古常曜益之が描いた龍画があります。
本堂正面欄間の「地獄極楽」の彫刻

昔、性空上人が弟子の幻通に「秩父の里へ仏恩を施して人々を教化しなさい。」と命じました。幻通はこの地で四萬部の佛典を読誦して経塚を建てました。四萬部寺の名前はこれによるものです。

平和の鐘には、秩父郡市出身の一千霊の名前が刻まれていて、この鐘を静かに撞くことによって、その音色で英霊を慰めるといいます。我が家も1人1回ずつ撞かせていただきました。
1番札所 四萬部寺 御朱印


『ありがたや 一巻ならぬ 法のはな 数は四萬部の 寺のいにしえ』
3番札所 常泉寺
お次ぎは、曹洞宗のお寺「岩本山(いわもとさん)常泉寺(じょうせんじ)」へ!門の両脇に、仁王様が出迎えてくれます。

一段高くなった、見晴らしの良い丘の中腹に観音堂があります。本堂は弘化4年(1847年)に焼失し、安政5年(1858年)に再建されたものです。

母親が子どもを抱いているような珍しい形の子持石。子授けの御利益があるそうです。
またその昔、ご住職が重い病気で寝ていた時、夢に現れた観音様から「境内の水を服用せよ」とのお告げがあり、そのとおりにすると病気が治ったといい、境内には長命水と呼ばれる水があります。また、境内には文昭院(6代将軍・徳川家宣)/ 増上寺の石灯籠がみられます。

宝形屋根、三間四間、表に一間の大唐破風の現在の観音堂。それ以前は五間四面の大きなものでしたが、弘化年間に焼失したため明治3年(1870年)秩父神社の境内にあった蔵福寺の薬師堂を移築したもので、1番札所、四萬部寺の観音堂を作った秩父の名匠・藤田徳左衛門の造営とされます。高さ1m弱の御本尊は、室町時代の作と伝えられる聖観世音菩薩の木彫像です。
観音堂向拝の彫刻が素晴らしく、場所により名入り部分も確認できます。

特に見事なのが、海老虹梁に施されたカゴ彫細工!!!

3番札所 常泉寺 御朱印

『補陀らくは 岩本寺と おがむべし 峰の松風 ひびく滝つせ』
4番札所 金昌寺
最後は、曹洞宗のお寺「高野山(こうこくさん)金昌寺(きんしょうじ)」にお邪魔しました。こちらの札所は、県指定民俗資料石仏群のあるお寺としても知られています。
大きな草鞋のかかる朱塗りの仁王門が印象的です。

仁王門上には四国三十三観音が見られます。

門を潜ると、境内は無数の石仏群で埋め尽くされています。

境内には文昭院(6代将軍・徳川家宣)/ 増上寺の石灯籠が見られます。また、宝永年間より、全国に分布する信者により菩薩供養のため奉納された石仏が一千体余り見られ圧巻です。中には「酒飲み地蔵」なども。

その昔、この地に荒木丹下という怪貧者あり、ある日旅の巡礼、食を乞いしところ神国の米を仏に供するいわれはないと打ちいためれば、娘は「人は神の末なり妾もまた人なるを踏みたたくは神を踏むに同じなり、神は皇親の心を教え、仏は自他平等を説かれたり」とねんごろに説けばついに丹下志を改め、自ら入道となり本尊供養に専心したという縁起があります。

御本堂は三間四面、唐風の江戸中期の建築。御本尊は、室町時代 行基菩薩の作と伝わる 高さ107cmの十一面観世音立像。

【慈母観音像】 宗朝様の形式を持つ子育観音です。

無心な赤子、優しい表情の母親。女性が子育ての中で、一番喜びを感じる瞬間ですね。暑さを忘れ、見ているこちらまで優しい気持ちになれました。
4番札所 金昌寺 御朱印


『あらたかに まいりておがむ かん世音 二世安楽と 誰も祈らん』
おしまいに
今回はほんの触り程度で。機会をみて、またお邪魔したいです。--- Sunday, June 1, 2014 ---
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