御島石部神社に残る小林源太郎作品|柏崎
2014年06月29日
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まえがき
越後で活躍した名匠は「越後のミケランジェロ」と称される「石川雲蝶」ばかりではありません。雲蝶作品を巡る中、度々登場した名前が「小林源太郎」でした。雲蝶より15歳年上で、雲蝶より先に越後入りをし各地に彫刻を遺している人です。小林源太郎
江戸時代幕末に活躍した名工。彫工小林一門(小林家初代は源太郎の父・小林源八正信|二代石原銀八義明門人)の二代目として、寛政11年(1799年)玉井村(熊谷市玉井地区)に生まれ、姓は長谷川、号は小淋斉熊谷、越後と熊谷を行き来しながら仕事をしていたので、越後では熊谷源太郎とも呼ばれていました。大酒呑みの一面もありましたが、一度彫刀を握れば寝食を忘れ、たちまち見事な彫刻をものにしたという、まさに職人気質。源太郎には2人の男子がありましたが、弘化2年(1845年)突然遺産を譲り、越後へと去ってしまいます。(この時に三国峠で雲蝶と運命的な出会いをします。)
文久元年(1861年)初冬に群馬県玉村で没します。享年63歳でした。
二人の出会いは弘化2年(1845年)のこと。この時雲蝶32歳。15歳年上の源太郎は47歳ということになります。
雲蝶が初めての越後へ向かう途中、三国峠権現堂で一休みした時のことです。同じように、峠で休んでいたのが、雲蝶よりも先に越後各地で活躍していた源太郎でした。一服しながら言葉を交わしてみると、江戸雑司が谷(東京都豊島区)生まれの雲蝶と、武州玉井村(埼玉県熊谷市)生まれの源太郎。お互い関東出身の名工同士と知り、名刺代わりとでもいうのでしょうか?互いの腕比べで彫り上げたというのが、有名な三国峠の権現堂『金剛力士像彫り比べ』の伝説です。
互いの技量を確認し越後入り。そしてここから好敵手として相手を意識しつつ、さらに己の腕を磨きつつ、その後、越後各地に作品を残すことになります。
これまで拝見した2人の共作などが見られる場所
- 龍谷寺本堂欄間
- 秋葉三尺坊大権現奥の院:弘化3年(1846年)
- 西福寺(雲蝶)・鐘楼の阿吽の龍(源太郎):天保初年上棟~安政4年(1857年)落成
現在、県内で公開されている雲蝶作品はほぼ見終えた事もあり、今度はもう一人の名工・小林源太郎の作品を追ってみようと思います。雲蝶作品のように、はっきりと刻銘が入っていない作品も数あるようで、いまだ発掘されていない作品も多いようです。
西山町にある御島石部神社
今回お邪魔したのは、柏崎市指定文化財にもなっている西山の御島石部(みしまいそべ)神社。旧西山町石地に鎮座している神社で、日本海に面した小尾根の上に位置します。市内には「式内御島石部神社」を自称する同名の神社が北条にもあります。

海沿いの国道352号に社号標があり、緩やかに上る、境内に至る350mの参道。御影石が敷かれた桜並木は往時を偲ばせ、鶯の鳴き声がとても心地よかったです。

御島石部神社由来
延喜式神名帳に載っている由緒ある神社で、御祭神は大己貴命(大国主命)です。その昔、大己貴命が北陸東北方面平定のために出雲から水路にてこの地を訪れた際、岩の懸橋が海中から磯辺まで続いているのを不思議に思われて舟を寄せてみると、この地の荒神二田彦、石部彦の二神が出迎え、杯に酒を盛って敬意を表しました。御島石部神社の祭礼神輿が陸から島に渡り、御神酒を捧げるといった儀式はここから由来していると云われています。
大己貴命が残された御佩(はかせ)の剣は、御島石部神社の御神体として崇め奉られ鎮守となっています。

獅子狛犬

境内社(海に面した集落なので金刀比羅宮らしいです)と神楽殿。
境内社の個性的な獅子狛犬台座には「明治31年11月17日」の文字が見られます。

この神社は、応永15年(1408年)末社の二田神社が崩壊し合祀したため、二田社、二田大菩薩、御嶋二田神社とも称されましたが、天明2年(1782年)9月に現在の社名に復したといいます。
現在の社殿は、弘化3年(1846年)に再建されたもので、本殿、幣殿、中殿、拝殿、廊下ともに総欅破風造りになっていて、江戸末期の建築の粋を集めた荘厳なお社です。


社殿の壁面には、数々の素晴らしい彫刻が施されています。

実は、神社には新旧2つの案内版があり、それぞれに、作者名で食い違う部分が見られるのですが、研究がすすんだと思われる近年(平成21年3月)のものを採用すると、拝殿の子持ち龍は諏訪の住人「立川和四郎」の作とあり、また別の流派、別の名工の名に出会います。


彫られたのは天保14年(1843年)頃らしく、その創作年代からも「立川和四郎」は二代・富昌(1782-1856)のことと思われます。
初代が確立した諏訪・立川流を、二代目の活躍により、本州中央部一円に数多くの名作を残すことができたといいます。(参考:諏訪大社上社本宮・拝殿・幣殿=天保6年(1835)上棟、嘉永年間に完成|諏訪大社下社秋宮・神楽殿=天保6年)
立川流は県内に類を見ないそうで、とても貴重なものを拝見することができました。

おぉ!これは木製のプロペラ???
明治38年(1905年)の日本海海戦で全滅した露艦の破碎が、その後この村に漂着したので記念に奉納したものだそうです。拾い上げた3名の名が記載されていました。「坂の上の雲」の時代がここに…。

椎の樹叢
社殿脇には大きな椎の木が見られますが、御島石部神社の社叢で、社殿裏の丘陵20アールの範囲に及び椎の原生林が広がっていて、昭和29年に天然記念物として県の文化財に指定されています。八本木と呼ばれる巨木を含め、根回り7m以上の大木が3本。目通りのまわり3m以上の大木が10本含まれているそうです。

椎は日本の中央部以南に見られる広葉樹で、我が県は日本海側の最北端にあたるそうです。海流などの関係から、佐渡で数箇所見られますが、越後側ではここが唯一だそうです。

「奈良の春日大社馬酔木の樹林にも例えられる荘厳な佇まい」と、案内看板にありましたが、広大な椎の樹海をバックに建つ社殿はとても厳かな雰囲気がありました。
御島石部神社に残る源太郎作品
そしてこの本殿に、今回目的の源太郎さんの彫刻の数々が見られます。
獅子周辺の板地にも彫り物が見られる。

物語になっている部分も(上は波に上り下りの鯉)


こちらは波に千鳥。至るところに細かい細工で彫り込まれています。



弘化2年(1845年)作。雲蝶と三国峠で力比べ直後の47歳の作品でした。
訪問日:2014年6月14日(土)
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