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沼田城址|群馬

2014年10月24日

城址巡り
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沼田市指定史跡【沼田城址】

沼田城は、天文元年(1532年)に三浦系沼田氏12代・万鬼斎顕泰が約三年の歳月を費やして築いた城です。当時は蔵内(倉内)城と称し、沼田市街地発祥の要で、沼田市の歴史の起点でもあります。
築城から48年後の天正8年(1580年)武田勝頼の武将・真田昌幸が入城し、城の規模を拡大します。天正18年(1590年)昌幸の長子・信幸が沼田領2万7千石の領主となり、慶長年間に五層の天守を建造します。その後、五代91年間の真田氏の居城となりましたが、天和元年(1681年)真田氏5代城主・伊賀守が徳川家に領地を没収となり、翌2年1月に沼田城は幕府の命により完全に破却され、以後、天守が再建されることはありませんでした。
その後、本多氏が旧沼田領177ヶ村のうち46ヶ村と飛地領合わせ4万石の藩主として入封し、幕府の交付金で城を再興し、三の丸に屋形を建てました。次いで黒田氏2代、土岐氏12代の居城となりましたが、明治になって版籍奉還し、屋形も取り壊されました。
時代を経て本丸、二の丸跡が現在の沼田公園となり、石垣の一部などの遺構が僅かに残され、往時が偲ばれます。

沼田城址

沼田城址

沼田城址散策

日光旅行の最後に、高速出入り口付近、沼田市内に残された城址を散策してから帰りました。

沼田城址は、利根川と支流の薄根川が形成する河岸段丘上に築かれた崖縁城です。
現在、本丸、二の丸、三の丸の一部、捨郭跡が野球場やテニスコートなどの運動施設を含む沼田公園となり、市民憩いの場にもなっています。また、総郭の一部が沼田小学校や沼田女子高等学校の敷地となっています。

沼田城址

先に掲載の「上野国沼田城絵図」は、江戸幕府3代・家光公が正保年間(1644~1647)に全国の大名に城の防御体制を絵図に描かせて提出させた、いわゆる正保絵図の1つで、真田氏4代城主・信政の時代の沼田城と城下の様子が分かる重要な資料です。真田氏が改易になる天和元年(1681年)まで存在していた天守や櫓、城門等の形態を知ることが出来ます。今回はこれを参考に公園内を散策していきます。

三の丸跡

城址公園の入り口脇にある駐車場付近は、江戸期の三の丸にあたる場所です。三の丸は東西約380m、最大幅約120mあり、本丸、二の丸の南側に位置し、侍屋敷があったと考えられます。駐車場脇には当時の土塁が残され、下を走る道路は堀であった部分と思われます。

沼田城址

侍屋敷跡付近から見る現在の公園入り口方向。テニスコートは水濠の名残りのような高低さを感じ、野球場のと間に土塁状の部分が見られます。

沼田城址

現在二股に分かれている公園内の道。左手に行くと本丸へ。右に行くと本丸御門跡と二の丸跡の野球場。

沼田城址

本丸水濠跡

本丸御門跡へと向かう途中、テニスコートから繋がる位置に、本丸水濠の跡が残されています。

沼田城址

絵図によると、二の丸から本丸の間に設けられた水濠は、本丸側に唯一石垣が積まれた城内で最も大きな濠でした。絵図によると、幅は12間(約24m)で、本丸に入る櫓門付近の石垣の高さは3間(約6m)と記されています。写真に見られる濠の右側には、真田氏時代の石垣と思われる部分が残されています。平成9年の発掘調査で、池の石垣に連なる石垣の一部と、濠の中に崩された石や多くの瓦が出土してたそうです。地中には城が破却された際の石や瓦が埋没しているであろう。。。とのことです。
また、出土した軒丸瓦は三巴紋で、周囲には16個の朱点があり、信州上田城出土瓦と類似点が認められるそうです。

本丸御門跡

本丸と二の丸の虎口であった御門跡の標柱が見られます。道の様子などから、枡形門であったと思われます。

沼田城址

二の丸跡

現在野球場になっている二の丸跡。周囲に土塁が残されています。その他、旧生方家住宅(国指定重要文化財)、旧土岐邸、洋館(国登録有形文化財)旧日本基督教団沼田教会紀念会堂が移築されています。

沼田城址

本丸跡

本丸跡は、草花の多い公園として整備されています。北東端には天守台跡と思われる高まりがみられ、本丸内部には鐘櫓が復元されています。

沼田城址

利根沼田地区の三千を超える御霊が祀られているという利根英霊殿。この付近の土塁が天守台のようで、ここに5層天守が存在していたのでしょう。

沼田城址

天守台跡

沼田城の天守は、真田氏初代城主となった信之(幸)が、慶長年間(1596~1614年)に建造したと伝えられ、その規模は柱間で9間×10間(推定18m四方)の5重であったとされています。天守東の石垣は、濠の底から8間もの高さがあり、屋根には千鳥破風が多くみられ、最上階には高欄が巡っていていました。関東における5重の天守は江戸城以外には沼田だけであったことや、天守付近から金箔瓦が見つかっており、関東において特別な城であったことが伺えます。天和元年(1681年)に5代伊賀守が改易となった後、幕府によって全て破却され、それ以後は天守や櫓の再建がありませんでした。

沼田城址

鐘楼

公園内に、沼田城のシンボルとして復元された鐘楼がみられます。

沼田城址

寛永11年(1634年)真田氏が城主時代には城内に建てられていましたが、城の破却と共に取り壊されています。明治20年(1887年)旧沼田町役場敷地内に「鐘楼」が建てられ、昭和39年(1964年)に市庁舎改築で取り壊されるまで「時鐘」として市民に親しまれていたものを、昭和58年(1983年)沼田公園内に移築復元したものです。真田信吉が鋳造させた城鐘(県指定重要文化財)が吊り下げられています。

沼田城址

西櫓台跡

西櫓台に見られる御殿桜。沼田城に5層の天守があった時代に植えられたもので、樹齢400年余りという沼田城形見の名木です。

沼田城址

本丸北西隅に見られる石垣や石段は、西櫓台に伴うもので、真田氏時代の遺構と思われるものです。

左:石垣裏手に回る道がついています|右:崖に面した本丸西櫓台の石垣
沼田城址

ぐるりと巡らされた石垣の様子が見られ、沼田城の最大の見所になっています。

沼田城址

5代城主信利(信澄)の改易により、翌年に城は跡形もなく破却されたといわれていましたが、発掘により、壊されずに地中に埋められていた部分が300年以上の時を経て再び往時の姿をみせています。

捨郭跡

本丸北側にある捨郭。地図に古城とあるので、古い時代の城郭と思われます。

沼田城址

村上鬼城 句碑

昭和4年(1929年)建立の村上鬼城の句碑がありました。

沼田城址

越後路へ をれ曲がる路や 秋の風

村上鬼城
村上鬼城は、慶應元年(1865年)鳥取藩士の息子として江戸に生まれ、その後上州高崎に生きた俳人です。

句のように、捨郭からは正面に三峰山。少し視線を左に移すと、三国峠や越後への道が見えます。
稲刈り前。まさに秋の風景でした。

沼田城址

平八石

郭内には、沼田平八郎景義の首級をのせたという石がありました。

沼田城址

平八郎は沼田城(蔵内城)を築いた沼田氏12代・顕泰の側室の子で、摩利支天の再来とまでいわれた勇将でした。朝憲は城を嫡子・朝憲に譲り、平八郎を連れて川場村天神城へ隠居しましたが、側室とその兄・金子美濃守らに唆され、永禄12年(1569年)正月、朝憲を呼び寄せて謀殺。そのため顕泰、平八郎は沼田勢に追われ会津へと逃れます。
平八郎は12年後、沼田城の奪還の平を挙げて沼田城に迫ります。真田昌幸は、戦っては平八郎に勝てないと知り、城内にいた金子美濃守を騙します。美濃守は、己が栄進したいため平八郎に会い武装を解き「必ず城主にしてやる。」と偽り、城内へと誘い入れて殺害します。
天正9年(1581年)3月14日(一説には15日)享年42歳。風雲児の最期は、また哀れなものでした。
平八郎の首級は昌幸が実検の後、この石の上に置きました。亡骸は町田町の小沢城に葬り、沼田大明神として祀りましたが、首級はここから遺骸を埋めた場所まで飛んでいったといわれています。

沼田城址

沼田城歴史

  • 天文元年(1532年)沼田氏12代の沼田顕泰が築城し、柳町の幕岩城から移る。
  • 永禄9年(1566年)顕泰は子の朝憲に城主を譲り、側室とその子・平八郎を連れて川場村天神城へ隠居しますが、平八郎を城主にしたいために同12年正月、朝憲を呼び寄せて殺害。顕泰と平八郎は沼田勢に追われ、会津へと逃走。上杉謙信が柴田右衛門尉を城代とする。
  • 天正6年(1578年)謙信死去。代わって小田原の北条氏政・直政父子が支配。天正8年(1580年)真田昌幸が入城。 翌9年3月、平八郎は沼田城奪還のため来攻したが、昌幸の策に乗った金子美濃守に城内で謀殺され、沼田氏滅亡。
  • 天正10年(1582年)織田信長は滝川儀太夫を城代にしますが、6月信長が本能寺で討たれ、滝川は去り、真田の一族・矢沢頼網が城代となる。
  • 天正17年(1589年)真田氏北条氏と和し、北条氏の有となりますが、翌年北条氏が真田所領の名胡桃城を掠奪したため豊臣秀吉は怒り、小田原の北条氏を撃滅し沼田を真田昌幸に与え、昌幸の長子・信幸が初代沼田城主となる。
  • 元和2年(1616年)子の信吉。寛永12年(1635年)信吉の長子・熊之助。
  • 同16年(1639年)信吉の弟・信政を経て明暦3年(1657年)信吉の諸子・伊賀守信直が五代城主となる。
  • 元和元年(1681年)11月幕府は悪政を理由に伊賀守を追放し三万石の領地を没収。五層の威容を誇った沼田城は破却される。以後、5人の代官が在任。
  • 元禄16年(1703年)本多正永が城を再建。2代・正武、3代・正矩が城主となる。享保15年(1730年)後藤庄左衛門が代官となる。
  • 享保17年(1732年)から11年間、黒田直邦、直純が城主となる。
  • 寛保元年(1742年)土岐丹後守頼稔(寺社奉行、大阪城代、京都所司代、老中を歴任)が駿河国田中から移封されて沼田城主となり、明治2年(1869年)土岐隼人正頼知が藩籍を奉還するまでの127年間、12代に渡たり城主でした。
現地案内看板より

訪城日:2014年9月15日(日)
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そふぃあ
Posted by そふぃあ
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