秩父札所めぐり|甲午歳総開帳・その4
2014年11月15日
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秩父名物の美味しい豚みそ丼で活力を得て、再び札所巡りの再開です。まずは、お昼をいただいたお店と同じ名前の寺院から。
両脇に桜並木の、緩い上り坂の参道の向こうに、重層楼門造りの黒塗りの山門が見えてきます。
明治末期の火災で寺は焼失していますが、幸いにも、寛保元年(1741年)建立という山門は残りました。
山門前にある石灯籠2基は文昭院(6代将軍・徳川家宣)|増上寺
楼上には阿弥陀、釈迦像、十三仏像が左右の花頭窓の中には十王が安置されています。

門内には、平成14年御開帳の際に奉納の怒りや病気、悩みを預かってくれるという「あずかり観音」や、怪力柳生の牛に跨る「十牛観音」が安置されていました。

綺麗に整備された境内。夏の蓮の花の名残りを感じます。

本堂正面に、童顔の六地蔵が微笑ましい姿でありました。

本堂は六間四面。明治39年(1906年)火災で焼失し、その後の昭和49年(1974年)再建されたもの。向拝には迫力の3匹の巻き龍が見られます。

内陣にまつられている御本尊は、藤原時代の作と伝わる高さ156㎝、一木造りの聖観世音菩薩立像。
その昔、甲斐の商人が秩父の山路で山賊に襲われ命も危うい時、一心に観世音を唱えると、不思議と賊難を逃れられたといいます。その後、商人は観音の利益を敬い、甲斐より秘蔵の聖観世音五尺の立像を安置し、この寺を建立したという縁起があります。

12番札所 野坂寺 御朱印

御朱印を頂戴していると、「どうぞ、本堂も自由に上がって見て行って下さい。」と。お言葉に甘え、本堂内陣間近から観音様を拝み、庭園を拝見することができました。
境内にいてもずっと心地よい水音が聞こえていたのですが、それが裏庭に流れる滝音だったとは!

お寺を出る際には、山門の裏側のこんな光景を見ながら。

『老いの身に 苦しきものは 野坂寺 いま思い知れ 後の世の道』

本堂は三間四面 表軒唐破風つきの流れ向拝、入母屋造り。
明治11年(1878年)の秩父大火で焼失してしいますが、明治34年(1901年)1番札所の本堂を模して再建され、現在に至ります。
御本尊は、行基作と伝わる聖観世音菩薩。
本堂前の石灯籠2基は文昭院(6代将軍・徳川家宣)|増上寺

向拝の彫刻や、本堂上の絵画や格天井は見事です。

『御手に持つ 蓮のははき 残りなく 浮世の塵を はけの下寺』

日本武尊が東征の折、この地に御旗を立てた為「旗の下」の地名が生まれ、時を経て「はたの下」と呼ぶようになります。寺の山号もこれに由来するものです。
明暦丁酉の年(=明暦3年・1657年)正月十八日の大火災の折(俗に言う振袖火事のこと) 江戸中橋に嫁いでいた大宮町の高野氏の娘の命が、聖観世音の出現により助かったという「火災の利益」の話があります。

13番札所 慈眼寺 御朱印

本堂向かって右手に、火災にも焼け残った石造りの一切経蔵があります。蔵内には輪蔵形式の経庫があり、礼拝しながら回転すると、一切経を読誦したご功徳があるといいます。秩父札所の縁起で創始者と伝えられている十三権者像が安置されています。
境内にある瑠璃殿(薬師堂)は「あめ薬飾」と呼ばれ、目の健康にご利益があり、毎年7月8日の縁日には「め」と書いた絵馬が奉納され、境内外には200軒あまりの露天が建ち並び、黒ごまの入ったぶっかき飴が売られて賑わいます。
山門入ってすぐの場所に祀られている福寿稲荷。顔立ちが細面なので多分おキツネ様だと思うのですが、頭が丸くなり、かなりの年代物と思われました。(過去に、江戸時代のもので同じ雰囲気のものに出会っています。)

納経所入り口にいたウサギさん

江戸時代には今宮坊が観音堂と今宮神社の別当を兼ねていましたが、明治期の神仏分離により、今宮神社と観音堂は分離されています。

現在の観音堂は、宝永6年(1709年)再建のもの。
御本尊は、高さ57.7cm 江戸時代作と伝わる 聖観世音木造漆箔の半跏坐像(右足を左腿にのせて坐禅のように胡坐をかく)
雲中出現の霊像といわれ、弘法大師が霊像を刻もうとしたところ、雲中から菩薩の像が出現したので、この地に安置したという縁起があります。
観音堂手前には、秩父札所では珍しい輪廻塔もみられます。
戦国の昔、甲斐の武田軍と北條軍との戦が絶えなかった頃、武田軍が秩父にやって来ては神社仏閣を焼き討ちにしたため、このお寺も被害に遭っています。「信玄焼」といわれ、今でもその文献や碑が各地に残っています。
また、武田軍が秩父へ攻めこんで来た時、武田家臣・石原宮内は信玄の勘気に触れて切腹を命ぜられますが、このお堂にこもって終夜観音様を祈りつ続けていると、切腹直前に早馬が来て許されたという話が伝わっています。

境内にある聖徳太子像と、樹齢500年という欅の大木。
ここへ来る道すがら通る今宮神社には天然記念物指定の徳川家康が馬を繋いだという「今宮の欅」もみられます。

本堂左手にある「勢至堂」。勢至菩薩は午年生まれ、ちび子の守り本尊です。

14番札所 今宮坊 御朱印

『昔より 立つとも知らぬ 今宮に 参る心は 浄土なるらん』
2冊目の御朱印帳が終了したところで、この日の巡礼も終了でした。
--- Sunday, October 19, 2014 ---
12番札所 仏道山 野坂寺|臨済宗南禅寺派

両脇に桜並木の、緩い上り坂の参道の向こうに、重層楼門造りの黒塗りの山門が見えてきます。
明治末期の火災で寺は焼失していますが、幸いにも、寛保元年(1741年)建立という山門は残りました。
山門前にある石灯籠2基は文昭院(6代将軍・徳川家宣)|増上寺
楼上には阿弥陀、釈迦像、十三仏像が左右の花頭窓の中には十王が安置されています。

門内には、平成14年御開帳の際に奉納の怒りや病気、悩みを預かってくれるという「あずかり観音」や、怪力柳生の牛に跨る「十牛観音」が安置されていました。

綺麗に整備された境内。夏の蓮の花の名残りを感じます。

本堂正面に、童顔の六地蔵が微笑ましい姿でありました。

本堂は六間四面。明治39年(1906年)火災で焼失し、その後の昭和49年(1974年)再建されたもの。向拝には迫力の3匹の巻き龍が見られます。

内陣にまつられている御本尊は、藤原時代の作と伝わる高さ156㎝、一木造りの聖観世音菩薩立像。
その昔、甲斐の商人が秩父の山路で山賊に襲われ命も危うい時、一心に観世音を唱えると、不思議と賊難を逃れられたといいます。その後、商人は観音の利益を敬い、甲斐より秘蔵の聖観世音五尺の立像を安置し、この寺を建立したという縁起があります。

12番札所 野坂寺 御朱印

御朱印を頂戴していると、「どうぞ、本堂も自由に上がって見て行って下さい。」と。お言葉に甘え、本堂内陣間近から観音様を拝み、庭園を拝見することができました。
境内にいてもずっと心地よい水音が聞こえていたのですが、それが裏庭に流れる滝音だったとは!

お寺を出る際には、山門の裏側のこんな光景を見ながら。

『老いの身に 苦しきものは 野坂寺 いま思い知れ 後の世の道』
13番札所 旗下山 慈眼寺|曹洞宗
街の中心部の一角にあり、古くから霊地として名高かったところです。
本堂は三間四面 表軒唐破風つきの流れ向拝、入母屋造り。
明治11年(1878年)の秩父大火で焼失してしいますが、明治34年(1901年)1番札所の本堂を模して再建され、現在に至ります。
御本尊は、行基作と伝わる聖観世音菩薩。
本堂前の石灯籠2基は文昭院(6代将軍・徳川家宣)|増上寺

向拝の彫刻や、本堂上の絵画や格天井は見事です。

『御手に持つ 蓮のははき 残りなく 浮世の塵を はけの下寺』

日本武尊が東征の折、この地に御旗を立てた為「旗の下」の地名が生まれ、時を経て「はたの下」と呼ぶようになります。寺の山号もこれに由来するものです。
明暦丁酉の年(=明暦3年・1657年)正月十八日の大火災の折(俗に言う振袖火事のこと) 江戸中橋に嫁いでいた大宮町の高野氏の娘の命が、聖観世音の出現により助かったという「火災の利益」の話があります。

13番札所 慈眼寺 御朱印

本堂向かって右手に、火災にも焼け残った石造りの一切経蔵があります。蔵内には輪蔵形式の経庫があり、礼拝しながら回転すると、一切経を読誦したご功徳があるといいます。秩父札所の縁起で創始者と伝えられている十三権者像が安置されています。
境内にある瑠璃殿(薬師堂)は「あめ薬飾」と呼ばれ、目の健康にご利益があり、毎年7月8日の縁日には「め」と書いた絵馬が奉納され、境内外には200軒あまりの露天が建ち並び、黒ごまの入ったぶっかき飴が売られて賑わいます。
山門入ってすぐの場所に祀られている福寿稲荷。顔立ちが細面なので多分おキツネ様だと思うのですが、頭が丸くなり、かなりの年代物と思われました。(過去に、江戸時代のもので同じ雰囲気のものに出会っています。)

納経所入り口にいたウサギさん

14番札所 長岳山 今宮坊|臨済宗南禅寺派
今宮神社を通り、間もなくの場所にある今宮坊。その創建は平安時代創建といわれ、かつては修験道の本山でも有名な聖護院の直末寺で長岳山正覚院金剛寺といい、長歴2年(1038年)建立された札所18番の神門寺(神戸山長生院)や札所28番の橋立堂は金剛寺の末寺で、修験者の一大道場でした。江戸時代には今宮坊が観音堂と今宮神社の別当を兼ねていましたが、明治期の神仏分離により、今宮神社と観音堂は分離されています。

現在の観音堂は、宝永6年(1709年)再建のもの。
御本尊は、高さ57.7cm 江戸時代作と伝わる 聖観世音木造漆箔の半跏坐像(右足を左腿にのせて坐禅のように胡坐をかく)
雲中出現の霊像といわれ、弘法大師が霊像を刻もうとしたところ、雲中から菩薩の像が出現したので、この地に安置したという縁起があります。
観音堂手前には、秩父札所では珍しい輪廻塔もみられます。
戦国の昔、甲斐の武田軍と北條軍との戦が絶えなかった頃、武田軍が秩父にやって来ては神社仏閣を焼き討ちにしたため、このお寺も被害に遭っています。「信玄焼」といわれ、今でもその文献や碑が各地に残っています。
また、武田軍が秩父へ攻めこんで来た時、武田家臣・石原宮内は信玄の勘気に触れて切腹を命ぜられますが、このお堂にこもって終夜観音様を祈りつ続けていると、切腹直前に早馬が来て許されたという話が伝わっています。

境内にある聖徳太子像と、樹齢500年という欅の大木。
ここへ来る道すがら通る今宮神社には天然記念物指定の徳川家康が馬を繋いだという「今宮の欅」もみられます。

本堂左手にある「勢至堂」。勢至菩薩は午年生まれ、ちび子の守り本尊です。

14番札所 今宮坊 御朱印

『昔より 立つとも知らぬ 今宮に 参る心は 浄土なるらん』
2冊目の御朱印帳が終了したところで、この日の巡礼も終了でした。
--- Sunday, October 19, 2014 ---
馬は観音様の眷属(けんぞく=神の使者)であることから、2014年は日本百番観音秩父34ヶ所観音霊場の総開帳の年にあたり、3月1日~11月18日まで、通常秘仏としてある観音様のお姿が拝めます。札所開基が文暦元年(1235年)この年の干支が今年と同じく甲午で、開基から13回目の甲午年となり、60年に1度の特別な開帳年です。
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