秩父札所めぐり|甲午歳総開帳・その6
2014年11月18日
-
19番札所 飛淵山 龍石寺|曹洞宗
参道を入ると、身代わり地蔵や六地蔵が出迎えてくれます。地蔵左の石灯籠は文昭院(6代将軍・徳川家宣)|増上寺
ご覧のように、この辺りには起伏のある岩盤が露出していて、お堂はその大きな岩盤の上に建てられています。
以前のお堂は七間半四面表流れの向拝をふした宝形造りでしたが、屋根が傷み雨漏りも酷く、地元観光協会の青年部が中心となり、浄財を募って昭和47年に解体復元されています。その際、宝永2年(1705年)の墨書が発見されています。
薄暗い堂内には閻魔さまをはじめ、十王像など冥途の恐怖を強調するもの、またお堂隣には、三途の川の川辺で死者の服を剥ぎ取るといわれる三途婆の坐像が安置されたお堂もあり、仏教の暗い一面を感じさせる札所でもあります。

本尊は、像高約46cm。寄木造り坐像の千手観世音菩薩で室町時代作と伝わるものです。

その昔、この地方で大旱魃があった時、弘法大師が雨乞い祈祷したところ、この地の大盤岩が二つに割れ、神泉苑から龍が昇天し、雲を呼んでたちまち雨が降ったことから大豊作を得たという縁起があります。
右:19番札所 龍石寺 御朱印

本堂の左右には、興味深い塚やお堂が見られます。動物を供養するお堂は、以前、近くに屠殺場があったからだそうです。

『あめつちを 動かすほどの 龍石寺 参いる人には 利生あるべし』
20番札所 法王山 岩之上堂|臨済宗南禅寺派

参道入り口に立つと、眼下に観音堂の屋根が見え、荒川対岸の景色まで望めます。文字通り、荒川西岸の崖上に建っているのが岩之上堂。かつての巡礼では荒川を船で渡り、下にあった奥の院から石段を上って観音堂を目指したそうです。
承暦元年(1077年)白河法皇が熊野に行幸した時の発願により、この地に本尊聖観音像を安置したと伝えられます。
その昔は願上寺と称し大伽藍のお寺でしたが、応仁の頃から廃れ、本尊のみが岩の上に雨ざらしになっていた時期もあったようです。永禄の兵乱によって焼かれ、その後、唯一個人所有となったお堂です。延宝初年(1673年)内田家先代の内田武左衛門尉政勝の再建によるものといわれ、現在は16代目が堂守をされています。

現在のお堂は江戸中期の造営と思われますが、元禄年間(1688~1704年)に内陣の補修、宝永年間(1704~1710年)に彫刻の補修が行われています。三間四面の屋根方形造りで向拝付き唐様系統の建築で、札所の中でも屈指のものです。

本尊は藤原時代末期の作と伝わる聖観世音菩薩
高さ71cmの檜材一刀彫、寄木漆箔。市指定の有形文化財になっています。
また、本尊を安置した厨子は、内面が金箔に塗られたうえ、三十三身の像と日天月像 風雷神などの半肉掘を貼布した、江戸時代初期の作として貴重なものです。
境内には石灯籠は有章院(7代将軍・徳川家継)|増上寺の燈籠が見られます。
その昔、寺尾に住む孝行息子が川向こうの宮路の病の老母を見舞う時、大雨で増水し渡れなくなったのを、岩之上堂の聖観音が童子に化身し、舟を漕ぎ渡してくれたという話が伝わっています。
右:20番札所 岩之上堂 御朱印

堂内には、布と綿で作られたさるぼぼに似た「猿子の瓔珞」が吊り下がっていました。出産の無事や、子どもの生育を願い、母親が作って奉納したものだそうです。
また、観音堂から荒川の方に石段を降りると「乳水場」と呼ばれる岩場があります。大きな岩の下から清水が垂れていて、この水を飲むと乳の出がよくなると信仰されていました。(崖崩れのため、通行不可となっていました。)

『苔むしろ 敷きてもとまれ 岩の上 王の臺も 朽ちはてる身を』
21番札所 要光山 観音寺|真言宗豊山派

『梓弓 いる矢の堂に 詣で来て 願ひし法に あたる嬉しさ』
このお堂は通称「矢之堂」と呼ばれ、本尊の他に幾体かの仏像があります。
大正12年(1923年)夏、近隣の小学校火災の飛び火により全焼しましたが、本尊は奇跡的に運び出され、その後、小鹿野町の廃寺を移築し再建されました。

境内には石灯籠は有章院(7代将軍・徳川家継)|増上寺の燈籠が見られます。

焼失前は三間四面のお堂だったといわれ、境内には聖観世音立像、百萬遍念仏塔、弁財天石塔、芭蕉句碑等がみられます。
本尊は高さ30cmほどの聖観世音菩薩
火難を逃れたことから「火除けの観音様」と呼ばれています。
境内写真奥に見える鳥居は八幡様です。もともとはここは八幡宮の社地でした。
その昔、行基菩薩がこの地を訪れた際、八幡宮の社地に聖観音像を刻んで祀ろうとします。これを伝え聞いた悪鬼共が、観音像開眼の日に火の雨を降らせて妨害します。邪心悪魔を払って仏地にするため、八幡大菩薩の放った神矢ががここに落ちて悪鬼を打ち払ったので「矢之堂」と名付けられたという縁起が伝わります。
中:21番札所 観音寺 御朱印

堂前の道端には、「田舎千両」と称された、地田舎芝居役者の座頭・中村十九十朗の墓石があります。地芝居が盛んだった時代が偲ばれる民俗資料として重要なものです。
22番札所 華台山 童子堂|真言宗宝山派

茅葺の仁王門が出迎えてくれる童子堂
そこに安置されているのは、大正時代の作「童子仁王」と呼ばれる童顔の珍しい仁王様でした。

このお堂は、淳和天皇(786~840/京都第53代天皇)の弟である伊豫親王(~807)の菩提のため、遍照僧正がこの領主に命じて草創したものといわれます。正式には「永福寺」というお寺さんですが、大昔、子どもの間に天然痘が大流行した時、お堂に観音様を祀って祈念し、岩間から生ずる清水をつけてたところ、たちまち疫病が治まったと伝わっていて、延喜年間(901~922年)府坂の地にお堂が移されて以来、子どもの病気に霊験あらたかということから「童子堂」の名で呼ばれています。
明治43年(1919年)府坂地内から永田城址であったこの地に移されたと伝えられていて、近くには現在も城址の堀跡が残されています。現地に移された時には栄福寺(現在の永福寺)持となっていましたが、現在は童子堂の隣の建物を永福寺と称しています。

本尊は弘法大師作と伝わる聖観世音菩薩
現在のお堂は江戸中期の華麗な建築で、四柱屋根三間四面で、周囲に勾欄付の椽をつけ、欄間や扉には風雷神や太鼓を打つ唐人、極楽浄土にいる霊鳥・迦陵頻伽など薄肉彫り淡彩の彫刻が見られ圧巻です。

その昔、讃岐の国に大変欲ばりな長者があり、行脚の僧が食べ物のお布施を願ったところ少しも恵んでくれず、僧がお金を払ってまで米を求めると、米を犬に与えてしまったため、とうとう僧は怒り、長者の息子を犬に変えてしまいます。
犬と共に喰い入る犬に化した息子の様子に驚き悲しんだ長者は、その犬を引いて諸国の霊場を廻り、童子堂に来てはじめて人間の姿に戻れたという縁起があります。
右:22番札所 童子堂 御朱印

境内には惇信院(9代将軍・徳川家重)|増上寺の石灯籠がみられます。
霊場を番号順に巡る人は多く、この日は途中から、1人バイクで巡っているお兄さんと先々で顔を合わせることが多く、こちらのお寺でもご一緒になりました。御朱印をもらう際に私の後ろに並ばれますが、かなり喉が渇いていたらしく、「水はもらえますか?」と、お寺の関係者に聞いていらっしゃいました。
徒歩で巡るお遍路さんもあり、各お寺ではお茶や漬物など用意されているところも多く、こちらでは「梅干しが用意してありますのでどうぞ!」と声をかけてらっしゃいました。

見れば、何十年ものの梅干しじゃありませんか!これは珍しいと、私も1粒頂戴しました。
ちょっと間違うと「種を食べたのか?」と勘違いするほど、果肉も凝縮された感じ。これだけの年月漬かった梅は、さぞ塩気も強くて酸っぱいのかと思いきや、今まで味わったことのない柔らかな酸味で、新しい食の発見でした。
そんな梅干しを味わいながら、再度見上げるお堂。見事でした。

『極楽を ここで見つけて 童う堂 後の世までも たのもしきかな』
梅干しで空きっ腹を刺激されたので、そろそろお昼にします。
--- Sunday, October 26, 2014 ---
馬は観音様の眷属(けんぞく=神の使者)であることから、2014年は日本百番観音秩父34ヶ所観音霊場の総開帳の年にあたり、3月1日~11月18日まで、通常秘仏としてある観音様のお姿が拝めます。札所開基が文暦元年(1235年)この年の干支が今年と同じく甲午で、開基から13回目の甲午年となり、60年に1度の特別な開帳年です。
関連する記事