秩父札所めぐり|甲午歳総開帳・その7
2014年11月20日
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この日の予報は、夕方にかけてお天気下り坂。お昼を済ませ山へ向かうと、大きな雲が出始めていました。

観音堂は三間四面の吹き寄せ二重垂木、向拝はありませんが、江戸時代中期造営の大きなお堂です。
内陣には唐様の須磨檀に、立派な厨子を安置しています。

本尊の聖観世音菩薩は、高さ81cmの一本造り檜材。室町時代の作と伝わっています。

埼玉県の天然記念物に指定されている「御影松」その下には天神様が祀られていました。
境内にある銅鐘は、高さ120㎝、直径69.7㎝、乳頭が108個ついているもので、聖観音、不空羅索観音、十一面観音、如意輪観音、千手観音、馬頭観音の順に六観音が鐘の下部周囲に鋳造されています。
鐘は明和5年(1768年)に旧材を使用し、再鋳されたものです。明治17年11月に起こった秩父事件の時、この鐘を打ちならして大宮郷へなだれ込んだといいます。
右下:23番札所 音楽寺 御朱印

境内には文昭院(6代将軍・徳川家宣)|増上寺の石灯籠がみられます。
本堂裏手に続く道を5分程上って行くと、小鹿坂峠に秩父札所を開設した十三権者の石仏が立っています。
1234年に妙見大菩薩、蔵王権現、善光寺如来、熊野権現、閻魔大王、具生神、花山法皇、白川法皇、徳道上人、性空上人、医王上人、良忠上人、通観法印の十三人の権者が秩父札所を開設した時、この地の松風の音を聞き、菩薩の音楽と感じたことにより、山号を松風山、寺名を音楽寺としたといわれています。

天長年間の昔、慈覚大師が関東霊場開拓の折、この地に聖観世音像を安置し山路を開こうとした時にたくさんの小鹿が現れ、道案内をしたため、小鹿坂の地名となったという縁起があります。

『音楽の み声なりけり 小鹿坂の 調べにかよう 峰の松風』
その先に見える、煩悩の数よりも少し多い110数段の石段を上った先の狭い霊地に観音堂があります。

江戸中期のお堂は、三間四面方形造り。
周囲には回廊をめぐらし、唐様を随所に配し、変化のある意匠をこらして妙味のあるものです。
特に唐戸は凹の字形に後退して付け、左右に仁王像が安置し、八角柱で変わった造りになっています。
室町時代作と伝わる宋朝風の本尊は高さ25cm、蓮華の上に座っている1本造りの聖観世音菩薩。
養老元年(717年)の昔、越前の大徳泰澄が夢のお告げにより、この霊地に加賀の白山を勧請したものといわれ、本尊も当山より現れた観音像を安置奉祀したとされます。
縁日の4月18日には、地元の人達が輪になって座り、10m程の大数珠をまわす「廻り念仏」という行事が行われます。

境内には「平和観音」や「六地蔵」などが祀られています。
石灯籠の中には文昭院(6代将軍・徳川家宣)|増上寺と刻まれたものがみられます。
その昔、武蔵国の恋ヶ窪に、口内の腫れ物に苦しむ遊女がいました。
ある日、秩父の修行僧が一本の楊枝を遊女に与え、「白山の観音を信じて使いなさい」と教えると、遊女は喜んで信心し、これで口中を漱いだところ、あっという間に癒えたという縁起があります。
中:24番札所 法泉寺 御朱印

『天照す 神の母祖の 色かへて なおもふりぬる 雪の白山』
簡素ながら落ち着きのある印象を受ける仁王門に出迎えられる久昌寺。門の扁額には、お寺の通称「御手判寺」と書かれています。
秩父札所開創の十三権者が秩父巡礼の折、播州書写山の性空上人が閻魔大王から贈られた石の手判をこの寺に納めたことに由来し、御手判寺と呼ぶのです。御手判は、無事にあの世に行けるための通行手形だといわれています。

仁王門を抜け、観音堂まではアスファルト舗装の参道を歩くかたちになります。
観音堂は三間四面、表流れ向拝をふした方形造りで、堂内には宮殿形の厨子がおいてあります。数年前に観音堂の修復がされているようで、新しい木がみえます。
本尊は、室町時代の作と伝わる 高さ52cmの一木造り 聖観世音菩薩立像。

観音堂手前には「地蔵尊」と書かれた祠が祀られています。前方を歩いていた僧侶が、女性同伴者に「お参りすると良いですよ。」と説明されている声が聞こえて来ます。
てっきりお地蔵様だと思って覗いてみると、どうも三途川婆と思われる像が安置されていました。秩父札所では、祀られている姿を度々みます。(三途の川で死者の着物を剥ぎ取る老婆のこと。女性はその姿を見て自分を戒める。なので私も心して拝む。)
余談ですが、お寺がある下久那には、参加者全員が死装束を纏い、生きている人を死者に見立ててお葬式をあげるという「ジャランポン」という奇祭があるそうです。
その奇祭には三途川婆は登場しないようですが、我が家地方の節分では、鬼と一緒に登場して暴れ踊りますからね。

境内に入ると、何やら冷たい空気感に変わった気がするのですが、本堂向かって左手には高い岩壁が存在し、ここから霊地特有の空気感が生まれているようでした。
こちらのお寺は、こんな鬼女伝説の残る場所なのです。
その昔、上ノ山奥野に心荒く、両親や親戚縁者からも嫌がられる一人の女がいました。身重ながら家を追い出されてしまった女は、久那の岩洞に住み始めますが、その振る舞いは鬼女のようで、村人にも恐れられてしまいます。
女は無事に女の子を出産しますが、これまでの悪行が祟り、娘が15歳の時に命を落としてしまいます。娘は母親に似ず心清らかで神仏を尊び、邪悪な母のことを思う度に悲しみました。里人の助けによって旅僧の持つ観音像を祀り、亡き母の菩提のためにこの地を霊地にしたといい、これがお寺の草創といわれています。
観音堂裏手にある弁天池。古くはこの水上に弁天堂が祀られていたといいます。
現在では畔の小道を通り、奥に見える本堂、納経所と一緒にあります。

白い幟旗には「水上辨才天」の文字が見られ、古来を偲ばせます。|中:25番札所 久昌寺 御朱印

『水上は いづくなるらん 岩谷堂 朝日もくなく 夕日かがやく』
4時半を過ぎたので、この日は終了。また次週~。
--- Sunday, October 26, 2014 ---
23番札所 松風山 音楽寺|臨済宗南禅寺
秩父市街地や武甲山を望む景勝地、小鹿坂峠の中腹に位置する音楽寺。その名のとおり駐車場には音楽流れ、心地よく上った先に建物が見えますが、ここは納経所で、途中のお稲荷さんで手を合わせ、さらに上に観音堂があります。
観音堂は三間四面の吹き寄せ二重垂木、向拝はありませんが、江戸時代中期造営の大きなお堂です。
内陣には唐様の須磨檀に、立派な厨子を安置しています。

本尊の聖観世音菩薩は、高さ81cmの一本造り檜材。室町時代の作と伝わっています。

埼玉県の天然記念物に指定されている「御影松」その下には天神様が祀られていました。
境内にある銅鐘は、高さ120㎝、直径69.7㎝、乳頭が108個ついているもので、聖観音、不空羅索観音、十一面観音、如意輪観音、千手観音、馬頭観音の順に六観音が鐘の下部周囲に鋳造されています。
鐘は明和5年(1768年)に旧材を使用し、再鋳されたものです。明治17年11月に起こった秩父事件の時、この鐘を打ちならして大宮郷へなだれ込んだといいます。
右下:23番札所 音楽寺 御朱印

境内には文昭院(6代将軍・徳川家宣)|増上寺の石灯籠がみられます。
本堂裏手に続く道を5分程上って行くと、小鹿坂峠に秩父札所を開設した十三権者の石仏が立っています。
1234年に妙見大菩薩、蔵王権現、善光寺如来、熊野権現、閻魔大王、具生神、花山法皇、白川法皇、徳道上人、性空上人、医王上人、良忠上人、通観法印の十三人の権者が秩父札所を開設した時、この地の松風の音を聞き、菩薩の音楽と感じたことにより、山号を松風山、寺名を音楽寺としたといわれています。

天長年間の昔、慈覚大師が関東霊場開拓の折、この地に聖観世音像を安置し山路を開こうとした時にたくさんの小鹿が現れ、道案内をしたため、小鹿坂の地名となったという縁起があります。

『音楽の み声なりけり 小鹿坂の 調べにかよう 峰の松風』
24番札所 光智山 法泉寺|臨済宗南禅寺派
参道脇に出ている露店では、巡礼者にも元気が付きそうな「黒にんにく」などが売られていました。その先に見える、煩悩の数よりも少し多い110数段の石段を上った先の狭い霊地に観音堂があります。

江戸中期のお堂は、三間四面方形造り。
周囲には回廊をめぐらし、唐様を随所に配し、変化のある意匠をこらして妙味のあるものです。
特に唐戸は凹の字形に後退して付け、左右に仁王像が安置し、八角柱で変わった造りになっています。
室町時代作と伝わる宋朝風の本尊は高さ25cm、蓮華の上に座っている1本造りの聖観世音菩薩。
養老元年(717年)の昔、越前の大徳泰澄が夢のお告げにより、この霊地に加賀の白山を勧請したものといわれ、本尊も当山より現れた観音像を安置奉祀したとされます。
縁日の4月18日には、地元の人達が輪になって座り、10m程の大数珠をまわす「廻り念仏」という行事が行われます。

境内には「平和観音」や「六地蔵」などが祀られています。
石灯籠の中には文昭院(6代将軍・徳川家宣)|増上寺と刻まれたものがみられます。
その昔、武蔵国の恋ヶ窪に、口内の腫れ物に苦しむ遊女がいました。
ある日、秩父の修行僧が一本の楊枝を遊女に与え、「白山の観音を信じて使いなさい」と教えると、遊女は喜んで信心し、これで口中を漱いだところ、あっという間に癒えたという縁起があります。
中:24番札所 法泉寺 御朱印

『天照す 神の母祖の 色かへて なおもふりぬる 雪の白山』
25番札所 岩谷山 久昌寺|曹洞宗

簡素ながら落ち着きのある印象を受ける仁王門に出迎えられる久昌寺。門の扁額には、お寺の通称「御手判寺」と書かれています。
秩父札所開創の十三権者が秩父巡礼の折、播州書写山の性空上人が閻魔大王から贈られた石の手判をこの寺に納めたことに由来し、御手判寺と呼ぶのです。御手判は、無事にあの世に行けるための通行手形だといわれています。

仁王門を抜け、観音堂まではアスファルト舗装の参道を歩くかたちになります。
観音堂は三間四面、表流れ向拝をふした方形造りで、堂内には宮殿形の厨子がおいてあります。数年前に観音堂の修復がされているようで、新しい木がみえます。
本尊は、室町時代の作と伝わる 高さ52cmの一木造り 聖観世音菩薩立像。

観音堂手前には「地蔵尊」と書かれた祠が祀られています。前方を歩いていた僧侶が、女性同伴者に「お参りすると良いですよ。」と説明されている声が聞こえて来ます。
てっきりお地蔵様だと思って覗いてみると、どうも三途川婆と思われる像が安置されていました。秩父札所では、祀られている姿を度々みます。(三途の川で死者の着物を剥ぎ取る老婆のこと。女性はその姿を見て自分を戒める。なので私も心して拝む。)
余談ですが、お寺がある下久那には、参加者全員が死装束を纏い、生きている人を死者に見立ててお葬式をあげるという「ジャランポン」という奇祭があるそうです。
その奇祭には三途川婆は登場しないようですが、我が家地方の節分では、鬼と一緒に登場して暴れ踊りますからね。

境内に入ると、何やら冷たい空気感に変わった気がするのですが、本堂向かって左手には高い岩壁が存在し、ここから霊地特有の空気感が生まれているようでした。
こちらのお寺は、こんな鬼女伝説の残る場所なのです。
その昔、上ノ山奥野に心荒く、両親や親戚縁者からも嫌がられる一人の女がいました。身重ながら家を追い出されてしまった女は、久那の岩洞に住み始めますが、その振る舞いは鬼女のようで、村人にも恐れられてしまいます。
女は無事に女の子を出産しますが、これまでの悪行が祟り、娘が15歳の時に命を落としてしまいます。娘は母親に似ず心清らかで神仏を尊び、邪悪な母のことを思う度に悲しみました。里人の助けによって旅僧の持つ観音像を祀り、亡き母の菩提のためにこの地を霊地にしたといい、これがお寺の草創といわれています。
観音堂裏手にある弁天池。古くはこの水上に弁天堂が祀られていたといいます。
現在では畔の小道を通り、奥に見える本堂、納経所と一緒にあります。

白い幟旗には「水上辨才天」の文字が見られ、古来を偲ばせます。|中:25番札所 久昌寺 御朱印

『水上は いづくなるらん 岩谷堂 朝日もくなく 夕日かがやく』
4時半を過ぎたので、この日は終了。また次週~。
--- Sunday, October 26, 2014 ---
馬は観音様の眷属(けんぞく=神の使者)であることから、2014年は日本百番観音秩父34ヶ所観音霊場の総開帳の年にあたり、3月1日~11月18日まで、通常秘仏としてある観音様のお姿が拝めます。札所開基が文暦元年(1235年)この年の干支が今年と同じく甲午で、開基から13回目の甲午年となり、60年に1度の特別な開帳年です。
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