秩父札所めぐり|甲午歳総開帳・その8
2014年11月25日
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良い天気に恵まれての旅だと思っていたのですが、お昼を済ませお寺に到着すると、こちら周辺はどうも雨だったようですね。ちょっと足元が心配だ。
圓融寺の本尊は、恵心僧都の作といわれる像高26cmの聖観世音菩薩です。
現在は圓融寺の本堂に安置されていますが、かつては奥の院ともいうべき「岩井堂」に安置されていました。

本堂には、高さ121cmの市指定文化財「勝軍地蔵立像」や、木造寄木造りで玉眼入り、鎧の上に環甲の袈裟をつけた鎌倉時代の仏像が安置されています。また、江戸中期 狩野派の絵師・鳥山石燕の「景清牢破り」の納額など寺宝としてあります。
圓融寺裏手の庭は、牡丹園としても有名です。
右:26番札所 円融寺 御朱印


圓融寺本堂を出て山沿いに歩き、昭和電工の敷地を通過すると琴平神社があります。
神社奥からも道はあるのですが、我が家は本来の参道ということで、右脇に見える道を進みます。
聖徳太子を祀った太子堂の脇を通過

石標を通過すると間もなく、真っ直ぐに上がる300段の石段に到着します。


鎌倉時代の元久2年(1205年)建立。周囲は急峻な地形で岩壁に覆われ、その中腹に建てられた三間四面の方形造り。
三方に勾欄をめぐらした朱塗り懸崖造りのお堂は、清水の舞台を連想させ、年月にさらされた姿は自然と調和し、実に美しく感動的な場所でした。

お堂へ向かう最後の階段は、天然の岩を段状にしたものと思われます。岩肌が覆い被さるように迫っています。

無数に貼られた千社札。1764年奉納の文字も見られ、古くからの信仰を感じます。

『尋ね入り むすぶ清水の 岩井堂 心の垢を すすがぬはなし』
その昔、弘法大師がこの地に巡錫し護摩の修行を成し遂げると、そこに聖観音が現れ「この事、後の大徳に任せよ」と告げました。その後、恵心僧都は聖観世音を彫り、村人と観音堂を建立して観世音を安置したといいます。

清水寺を模した舞台。前面は急傾斜で参道を真下に見下ろせ、左手には武甲山の山肌が迫り、さらに、奥秩父の山々が見渡せる絶好のロケーションです。

岩井堂のすぐ裏手は岩肌になっていて、何処と無く圧迫感があります。そして、さらに上へと続く道が見えます。


岩窟にはその昔、弘法大師37日の秘法を秘めたという護摩壇、仏国禅師の座禅石、秩父別当武基の玄孫、秩父太郎重弘、その子・重能、重忠などの信仰深かりし縁起もあります。

岩窟を撮影していると、一人の男性が上の方から降りて来られました。私は夢中で写真を撮っていて、男性は旦那と話していたのですが、「上まで行ってみたが、道は分かれているけど、何も無かった。」と…。
我が家も行ってみました。雨上がりで少し滑りながら。
確かに、おじさんの言うように、上がった先の道が幾手かに分かれてました。我が家は随分と山城歩きをした経験があるので、何となく勘が働いて山道の選択も出来るようになりましたが、あまり山歩きをしたことの無い人だと、最後で道を見失うかも知れませんね。


本堂から岩井堂へ向かう人は少なく、さらに岩井堂から上に向かう人はほんの一握り。そんな中、穏やかな表情で静かに岩の上に座り、誰かが来るのを待っているようでした。

この修験堂は、正面の神仏に祈念をこめ、外側に設けられた危険な廊下を1回巡り、中央にある十二支の輪を1つずつ動かすことを繰り返しながら12回回廊をまわって、元の干支が出て1回の行の目安としたそうです。

影森はその名のとおり、武甲山の陰に位置した場所。武甲山の山頂を望みながら、岩づたいの道を利用して、日に何度も往復し、修行したのだそうです。

修行堂の四方にはそれぞれに、「発心門」「修行門」「等覚門」「妙覚門」と名前がつけられ、柱には仏様の名が掲げられていました。

ここで修行を積んだ人々が江戸へ出て観音講を広め、その寄進によって大仏を造り、この地に運ばれて建てられました。
観音様には「正徳4年」の年号と、江戸の大勢の人の名が記されています。
この岩井堂、次の27番の月影堂、さらにその次の28番の橋立堂と、行者と地元の人々の苦労と努力で建てられたものだそうです。

岩の上に建つお堂。今回の旅では特に、こういう厳しい修行の場を実際に見て、自分なりに何かを感じてみたかったのです。これを見にゃ~、岩井堂まで来た価値半減でしょう。
この付近は琴平ハイキングコースになっていて、山道を通りつつ、護国観音を経由して、札所27番へと向かうことができます。
すっかり錆び付いた看板があり、脇にある祠の説明かと思うと「ゴミを捨てるな」という警告板でした。その言い方が何ともユーモラス。(*´艸`)

橋を見つめるようにある祠で手を合わせ橋を渡れば、27番札所域へと入ります。


2つ目の鎖場を越えると▼

その台座にも観音様が描かれた、高さ16.5mの巨大な観音様の足元に到着します。


大観音様の眺めている風景。すぐ麓を秩父鉄道が走っている様子がみえます。

▼大観音様の建つ台座の大岩部。その昔は、山頂付近に観音堂があったということですので、岩井堂奥の修行堂同様、僅かな岩地の上にお堂を建て、修行されていたのかも知れないですね。

山を下り、月影堂へ向かう途中にある護国観音建立記念碑と修復記念碑

この辺りまで来ると、月影堂や本堂などが眼下に映るようになります。

左:歩兵七十五連隊比島戦没者慰霊碑|右:月影堂脇の様子(不動明王が祀られています)

明治期と、さらには大正8年(1919年)当時開通したばかりだった秩父鉄道の蒸気機関車の煤煙によって火災が発生し、堂宇全てを焼失しています。その後、本堂と観音堂を兼ねた仮堂が再建されていましたが、平成7年(1995年)に裏山を切り開き、現在見られる三間四面、宝形屋根の観音堂が再建されています。
本尊は聖観世音菩薩。新しいお堂の居心地良く、少し微笑んだようにも見えました。

『夏山や しげきが下の 露までも 心へだてぬ 月の影もり』
その昔、行者の僧・宝明が諸国を巡っている時、この地に霊地が多いことにうたれ7年の月日を過ごしていましたが、思わぬ足の病になり動けなくなってしまいます。この地に巡錫中であった弘法大師が、これを気の毒に思い、一体の観音像を彫って宝明に与えました。喜んだ宝明は、自分1人だけで拝むのは勿体無いことと、一宇を建立して観音様を祀り寺の第一祖になったという縁起があります。

境内には、観世音菩薩さまお恵みの、天然湧き水「延命水」があります。飲めば33ヶ月長生きできるそうです。
また、山門手前には埼玉県指定史跡の「影森用水」があります。安政4年(1857年)当時の名主・関田宗太郎が、私財をなげうって地元の人々のために引いた水路で、飲料水や農業用水として活用されたものです。
右:27番札所 大渕寺 御朱印

境内には有章院(7代将軍・徳川家継)|増上寺の石灯籠が見られます。

参道入り口付近から振り返ると、丘陵上の大観音様が見送っていました。
そして近くの駅からは、この日通過のSLが出発するため、高らかに汽笛を鳴らしたところでした。

--- Sunday, November 2, 2014 ---
26番札所 万松山 円融寺|臨済宗建長寺派

圓融寺の本尊は、恵心僧都の作といわれる像高26cmの聖観世音菩薩です。
現在は圓融寺の本堂に安置されていますが、かつては奥の院ともいうべき「岩井堂」に安置されていました。

本堂には、高さ121cmの市指定文化財「勝軍地蔵立像」や、木造寄木造りで玉眼入り、鎧の上に環甲の袈裟をつけた鎌倉時代の仏像が安置されています。また、江戸中期 狩野派の絵師・鳥山石燕の「景清牢破り」の納額など寺宝としてあります。
圓融寺裏手の庭は、牡丹園としても有名です。
右:26番札所 円融寺 御朱印

岩井堂へ
ここからは以前ご本尊が安置されていたという場所、本堂から南に1.2Km程山間に入った、奥の院ともいうべき「岩井堂」を目指します。巡礼も後半になると、本堂と観音堂が別々の場所にあるなど、ここからいよいよ本格的な修行の場らしくなって来るのです。
圓融寺本堂を出て山沿いに歩き、昭和電工の敷地を通過すると琴平神社があります。
神社奥からも道はあるのですが、我が家は本来の参道ということで、右脇に見える道を進みます。
聖徳太子を祀った太子堂の脇を通過

石標を通過すると間もなく、真っ直ぐに上がる300段の石段に到着します。

岩井堂
石段を上り切ると道は左に向き、もう少し残された石段を上がり始めると、岩の上に建つ黒塗りの木組みに朱塗りのお堂、岩井堂が見えてきます。
鎌倉時代の元久2年(1205年)建立。周囲は急峻な地形で岩壁に覆われ、その中腹に建てられた三間四面の方形造り。
三方に勾欄をめぐらした朱塗り懸崖造りのお堂は、清水の舞台を連想させ、年月にさらされた姿は自然と調和し、実に美しく感動的な場所でした。

お堂へ向かう最後の階段は、天然の岩を段状にしたものと思われます。岩肌が覆い被さるように迫っています。

無数に貼られた千社札。1764年奉納の文字も見られ、古くからの信仰を感じます。

『尋ね入り むすぶ清水の 岩井堂 心の垢を すすがぬはなし』
その昔、弘法大師がこの地に巡錫し護摩の修行を成し遂げると、そこに聖観音が現れ「この事、後の大徳に任せよ」と告げました。その後、恵心僧都は聖観世音を彫り、村人と観音堂を建立して観世音を安置したといいます。

清水寺を模した舞台。前面は急傾斜で参道を真下に見下ろせ、左手には武甲山の山肌が迫り、さらに、奥秩父の山々が見渡せる絶好のロケーションです。

岩井堂のすぐ裏手は岩肌になっていて、何処と無く圧迫感があります。そして、さらに上へと続く道が見えます。

岩窟
岩井堂裏手にある岩窟。岩肌を人力で掘った痕もそのまま。
岩窟にはその昔、弘法大師37日の秘法を秘めたという護摩壇、仏国禅師の座禅石、秩父別当武基の玄孫、秩父太郎重弘、その子・重能、重忠などの信仰深かりし縁起もあります。

岩窟を撮影していると、一人の男性が上の方から降りて来られました。私は夢中で写真を撮っていて、男性は旦那と話していたのですが、「上まで行ってみたが、道は分かれているけど、何も無かった。」と…。
我が家も行ってみました。雨上がりで少し滑りながら。
確かに、おじさんの言うように、上がった先の道が幾手かに分かれてました。我が家は随分と山城歩きをした経験があるので、何となく勘が働いて山道の選択も出来るようになりましたが、あまり山歩きをしたことの無い人だと、最後で道を見失うかも知れませんね。

阿弥陀如来
阿弥陀如来様のお導きで、無事に目的地に到着でしたよ…おじさん。
本堂から岩井堂へ向かう人は少なく、さらに岩井堂から上に向かう人はほんの一握り。そんな中、穏やかな表情で静かに岩の上に座り、誰かが来るのを待っているようでした。
修行堂
そしてさらに奥には、行者のための修行堂です。
この修験堂は、正面の神仏に祈念をこめ、外側に設けられた危険な廊下を1回巡り、中央にある十二支の輪を1つずつ動かすことを繰り返しながら12回回廊をまわって、元の干支が出て1回の行の目安としたそうです。

影森はその名のとおり、武甲山の陰に位置した場所。武甲山の山頂を望みながら、岩づたいの道を利用して、日に何度も往復し、修行したのだそうです。

修行堂の四方にはそれぞれに、「発心門」「修行門」「等覚門」「妙覚門」と名前がつけられ、柱には仏様の名が掲げられていました。

ここで修行を積んだ人々が江戸へ出て観音講を広め、その寄進によって大仏を造り、この地に運ばれて建てられました。
観音様には「正徳4年」の年号と、江戸の大勢の人の名が記されています。
この岩井堂、次の27番の月影堂、さらにその次の28番の橋立堂と、行者と地元の人々の苦労と努力で建てられたものだそうです。

岩の上に建つお堂。今回の旅では特に、こういう厳しい修行の場を実際に見て、自分なりに何かを感じてみたかったのです。これを見にゃ~、岩井堂まで来た価値半減でしょう。
岩井堂から大渕寺へ
一旦道を岩井堂まで戻り…。この付近は琴平ハイキングコースになっていて、山道を通りつつ、護国観音を経由して、札所27番へと向かうことができます。
すっかり錆び付いた看板があり、脇にある祠の説明かと思うと「ゴミを捨てるな」という警告板でした。その言い方が何ともユーモラス。(*´艸`)

橋を見つめるようにある祠で手を合わせ橋を渡れば、27番札所域へと入ります。

27番札所 竜河山 大渕寺|曹洞宗
起伏があり、岩の多い尾根道を20分程歩き、▼1つ目の鎖場を越え
2つ目の鎖場を越えると▼

その台座にも観音様が描かれた、高さ16.5mの巨大な観音様の足元に到着します。

護国大観音
昭和10年(1935年)建立の観音様は「護国大観音」と呼ばれ、高崎観音、大船観音と共に、関東三観音の一つに数えられているものです。優しいお顔ながら、剣を持つ姿が時代を反映しているようです。
大観音様の眺めている風景。すぐ麓を秩父鉄道が走っている様子がみえます。

▼大観音様の建つ台座の大岩部。その昔は、山頂付近に観音堂があったということですので、岩井堂奥の修行堂同様、僅かな岩地の上にお堂を建て、修行されていたのかも知れないですね。

山を下り、月影堂へ向かう途中にある護国観音建立記念碑と修復記念碑

この辺りまで来ると、月影堂や本堂などが眼下に映るようになります。

左:歩兵七十五連隊比島戦没者慰霊碑|右:月影堂脇の様子(不動明王が祀られています)

月影堂
かつて、山の上に存在したという月影堂(観音堂)です。明治期と、さらには大正8年(1919年)当時開通したばかりだった秩父鉄道の蒸気機関車の煤煙によって火災が発生し、堂宇全てを焼失しています。その後、本堂と観音堂を兼ねた仮堂が再建されていましたが、平成7年(1995年)に裏山を切り開き、現在見られる三間四面、宝形屋根の観音堂が再建されています。
本尊は聖観世音菩薩。新しいお堂の居心地良く、少し微笑んだようにも見えました。

『夏山や しげきが下の 露までも 心へだてぬ 月の影もり』
その昔、行者の僧・宝明が諸国を巡っている時、この地に霊地が多いことにうたれ7年の月日を過ごしていましたが、思わぬ足の病になり動けなくなってしまいます。この地に巡錫中であった弘法大師が、これを気の毒に思い、一体の観音像を彫って宝明に与えました。喜んだ宝明は、自分1人だけで拝むのは勿体無いことと、一宇を建立して観音様を祀り寺の第一祖になったという縁起があります。

境内には、観世音菩薩さまお恵みの、天然湧き水「延命水」があります。飲めば33ヶ月長生きできるそうです。
また、山門手前には埼玉県指定史跡の「影森用水」があります。安政4年(1857年)当時の名主・関田宗太郎が、私財をなげうって地元の人々のために引いた水路で、飲料水や農業用水として活用されたものです。
右:27番札所 大渕寺 御朱印

境内には有章院(7代将軍・徳川家継)|増上寺の石灯籠が見られます。

参道入り口付近から振り返ると、丘陵上の大観音様が見送っていました。
そして近くの駅からは、この日通過のSLが出発するため、高らかに汽笛を鳴らしたところでした。

--- Sunday, November 2, 2014 ---
馬は観音様の眷属(けんぞく=神の使者)であることから、2014年は日本百番観音秩父34ヶ所観音霊場の総開帳の年にあたり、3月1日~11月18日まで、通常秘仏としてある観音様のお姿が拝めます。札所開基が文暦元年(1235年)この年の干支が今年と同じく甲午で、開基から13回目の甲午年となり、60年に1度の特別な開帳年です。
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