秩父札所めぐり|甲午歳総開帳・その10
2014年11月28日
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秋晴れの青空が広がり、気持ちよくドライブしながら、今回の札所巡りでは最後の(多分・・・)秩父入り。
R299から山道へと入り進むと、手前にあるお寺の斜面いっぱいの水子地蔵に圧倒されつつ駐車場へ到着。
こちらにも桁外れに大きな石の仁王様を安置する山門があり、寝ぼけ眼もパッチリでした。
一本石造りの仁王像は、その高さ4mという日本一大きなもの。明治元年(1868年)信州の石工・藤森吉弥と、秩父の黒沢三重郎との名作です。

大きな仁王様の手相と握手(?)した後は、ここから296段の石段を踏みしめつつ観音堂へと向かいます。この段数は、般若心経276字と、普回向20字を合わせた数になっているのだそうです。
前日の26番札所のような一直線に300段の石段と違い、こちらは段も綺麗で上り易いですし、途中数箇所に踊り場が設けられていることもあり、巡礼者や吟行会の句碑などを眺めながら、あまり苦も無く上れました。


胎内くぐりや天笠岩石仏群もあるそうなのですが、残念です。

▼左:16世・観法法印即身仏の墓
明治17年(1884年)86歳で亡くなっています。
私は日本最古といわれる650年ほど前の即身仏にお会いした事がありますが、明治期にはすでに廃止されたと思っていた即身仏への修行が、この時代もなお行われていたことに驚きでした。

こちらのお寺では鐘楼でなく、地面にそのまま鐘堂が建てられていました。
ご本尊は、行基作とつたわる聖観世音菩薩。

幕末の頃、16世・観法法印によってさざえ堂式の本堂、大宝篋印塔など建立します。しかし、明治26年(1893年)2月に本堂を全焼し、その後は長らく仮堂のままになっていました。昭和47年(1972年)4月に、現在のコンクリート造り三間四面のお堂が再建されています。

慶応2年(1866年)黒沢三重郎作の大宝篋印塔。
弘法大師像は慶応2年(1866年)山門の石像仁王尊と同じく、秩父の黒沢三重郎と信州の藤森吉弥が作ったものだそうです。

断崖途中の岩廂に弘法大師の石像が安置されています。以前はこういう場所でも修行されたのかも知れません。
その右手にある石碑は、江戸に春秋庵を開いた江戸中期の有名な俳人、加舎白雄が天明年間(1781~89年)に来訪した際に詠んだものです。
地表部に見られるものの他、地中部にも数段の磨崖仏が残っていて、俗に「十万八千仏」といわれているものです。
およそ3千万年前の海底に小石や砂が積もってできた「礫質砂岩」の岩肌を利用して刻まれたもので、岩肌の上部に大きく「南無阿弥陀仏」と大きく刻み、高さ約18㎝程の坐像と立像の仏像が、幾重にも浮き彫りにされています。
弘法大師が一夜にして爪で千体彫ったと伝えられているものです。
風化が激しいため、彫刻された年代を明確に定できませんが、室町時代頃の制作と推定されています。
石仏は奥の院に向う岩窟などにもあり、山全体では1万8千体の石仏が存在しているといいます。現在では約190体が確認できます。

観音堂左手後方の岩上からは、落差30m弱、行者が修行したという「聖浄の滝」が流れ落ちています。

こちらに祀られた不動明王も、三重郎と吉弥の作です。

観音堂の右隣には、弘法大師像が祀らた大師堂が建っています。丁度、大師堂の屋根上付近。観音堂背後から続く岩壁に、くり抜いたような穴に祠や石仏などが見られ、行者の修行地だったことが伺えます。
お天狗様のお堂脇には高桑闌更の句碑「山陰や烟りの中に梅の花」三日月庵無三建立。

霊験記によると、畠山重忠がこの地で狩りの折、鷲の巣を見つけたので、家臣の本田親常に矢を射させてみましたが、何度射ても矢が跳ね返されてしまいます。不思議に思った重忠が巣の中を見てみると、中には一体の聖観音がいらっしゃいました。
これこそが、その昔、行基が刻んだと人々が言い伝え、平安時代の将門の乱で所在を失ってしまった観音像であったといいます。奇縁に感じた重忠が堂宇を建立し、聖観音を祀ったのが始まりといわれています。
右:31番札所 観音院 御朱印

『深山路を かき分け尋ね 行きみれば 鷲の岩谷に ひびく滝つ瀬』

入ってすぐ、新生代第3紀(約1700万年前)花崗岩質砂岩と礫岩の互層の地層がみられます。
観音院の周りは、新生代第3紀の盆地内、最下部の地層で石英や長石の小石の混ざった砂岩です。斜交葉理と呼ばれる堆積時の水の流れの跡を示す薄い層も見られます。周辺道路に見られる石垣や仁王門の石像は、観音山で採掘された凝灰質砂岩(岩殿沢石)が使用されています。


奉納された年なのか?年代の刻まれた石段などを見ながら上ると、道は一旦下がり、大きな岩廂の「馬の蹄跡洞窟」にでます。
畠山重忠の愛馬を休ませたといわれる場所で、蹄の跡も残る「駒繋ぎ場」です。畠山重忠は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて活躍した武将、鎌倉幕府の有力御家人の一人です。
岩窟内には祠が祀られ、37体の石仏群がみられます。

さらに道を進むと、弘法大師像なども祀られ、さらに芭蕉句碑などを見ながら、ぐるっと一周して奥の院へと出るようになっていました。

句碑から望む対岸にも、先ほどと同じように石仏群が見えます。今回通行止めになっていて、見ることの出来ないはずだった滝の上岩窟の石仏群です。

観音山や大石山が望めるポイントに、静かに東奥の院はありました。

石段まで戻る途中「対岸1㎞先に注目」の看板あり見てみると、畠山重忠の家臣・本田親常が矢を射通したという、岩穴「矢抜け穴」がありました。この地方、一帯を牛耳った大豪族とその家臣にまつわる話は多そうです。

--- Monday, November 3, 2014 ---
R299から山道へと入り進むと、手前にあるお寺の斜面いっぱいの水子地蔵に圧倒されつつ駐車場へ到着。
こちらにも桁外れに大きな石の仁王様を安置する山門があり、寝ぼけ眼もパッチリでした。
31番札所 鷲窟山 観音院|曹洞宗

一本石造りの仁王像は、その高さ4mという日本一大きなもの。明治元年(1868年)信州の石工・藤森吉弥と、秩父の黒沢三重郎との名作です。

大きな仁王様の手相と握手(?)した後は、ここから296段の石段を踏みしめつつ観音堂へと向かいます。この段数は、般若心経276字と、普回向20字を合わせた数になっているのだそうです。
前日の26番札所のような一直線に300段の石段と違い、こちらは段も綺麗で上り易いですし、途中数箇所に踊り場が設けられていることもあり、巡礼者や吟行会の句碑などを眺めながら、あまり苦も無く上れました。

NGだった西奥の院コース
左手に行くと西奥の院がありますが、平成13年(2001年)に岩盤の倒壊事故があったため、立ち入り禁止になっていました。
胎内くぐりや天笠岩石仏群もあるそうなのですが、残念です。

▼左:16世・観法法印即身仏の墓
明治17年(1884年)86歳で亡くなっています。
私は日本最古といわれる650年ほど前の即身仏にお会いした事がありますが、明治期にはすでに廃止されたと思っていた即身仏への修行が、この時代もなお行われていたことに驚きでした。

こちらのお寺では鐘楼でなく、地面にそのまま鐘堂が建てられていました。
観音堂
秩父札所の中では最北端に位置し、標高700mの山の中腹、背後に大岸壁が覆う、最も険しい難所にある観音堂。ご本尊は、行基作とつたわる聖観世音菩薩。

幕末の頃、16世・観法法印によってさざえ堂式の本堂、大宝篋印塔など建立します。しかし、明治26年(1893年)2月に本堂を全焼し、その後は長らく仮堂のままになっていました。昭和47年(1972年)4月に、現在のコンクリート造り三間四面のお堂が再建されています。

慶応2年(1866年)黒沢三重郎作の大宝篋印塔。
弘法大師像は慶応2年(1866年)山門の石像仁王尊と同じく、秩父の黒沢三重郎と信州の藤森吉弥が作ったものだそうです。

断崖途中の岩廂に弘法大師の石像が安置されています。以前はこういう場所でも修行されたのかも知れません。
その右手にある石碑は、江戸に春秋庵を開いた江戸中期の有名な俳人、加舎白雄が天明年間(1781~89年)に来訪した際に詠んだものです。
鷲窟磨崖仏
断崖の岩場に、県の文化財に指定されている「鷲窟磨崖仏」がみられます。地表部に見られるものの他、地中部にも数段の磨崖仏が残っていて、俗に「十万八千仏」といわれているものです。
およそ3千万年前の海底に小石や砂が積もってできた「礫質砂岩」の岩肌を利用して刻まれたもので、岩肌の上部に大きく「南無阿弥陀仏」と大きく刻み、高さ約18㎝程の坐像と立像の仏像が、幾重にも浮き彫りにされています。
弘法大師が一夜にして爪で千体彫ったと伝えられているものです。
風化が激しいため、彫刻された年代を明確に定できませんが、室町時代頃の制作と推定されています。
石仏は奥の院に向う岩窟などにもあり、山全体では1万8千体の石仏が存在しているといいます。現在では約190体が確認できます。

観音堂左手後方の岩上からは、落差30m弱、行者が修行したという「聖浄の滝」が流れ落ちています。

こちらに祀られた不動明王も、三重郎と吉弥の作です。

観音堂の右隣には、弘法大師像が祀らた大師堂が建っています。丁度、大師堂の屋根上付近。観音堂背後から続く岩壁に、くり抜いたような穴に祠や石仏などが見られ、行者の修行地だったことが伺えます。
お天狗様のお堂脇には高桑闌更の句碑「山陰や烟りの中に梅の花」三日月庵無三建立。

霊験記によると、畠山重忠がこの地で狩りの折、鷲の巣を見つけたので、家臣の本田親常に矢を射させてみましたが、何度射ても矢が跳ね返されてしまいます。不思議に思った重忠が巣の中を見てみると、中には一体の聖観音がいらっしゃいました。
これこそが、その昔、行基が刻んだと人々が言い伝え、平安時代の将門の乱で所在を失ってしまった観音像であったといいます。奇縁に感じた重忠が堂宇を建立し、聖観音を祀ったのが始まりといわれています。
右:31番札所 観音院 御朱印

『深山路を かき分け尋ね 行きみれば 鷲の岩谷に ひびく滝つ瀬』
東奥の院ミニハイキングコース
観音堂と納経所の間付近からは東奥の院へと向かう道が延びています。
入ってすぐ、新生代第3紀(約1700万年前)花崗岩質砂岩と礫岩の互層の地層がみられます。
観音院の周りは、新生代第3紀の盆地内、最下部の地層で石英や長石の小石の混ざった砂岩です。斜交葉理と呼ばれる堆積時の水の流れの跡を示す薄い層も見られます。周辺道路に見られる石垣や仁王門の石像は、観音山で採掘された凝灰質砂岩(岩殿沢石)が使用されています。


奉納された年なのか?年代の刻まれた石段などを見ながら上ると、道は一旦下がり、大きな岩廂の「馬の蹄跡洞窟」にでます。
畠山重忠の愛馬を休ませたといわれる場所で、蹄の跡も残る「駒繋ぎ場」です。畠山重忠は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて活躍した武将、鎌倉幕府の有力御家人の一人です。
岩窟内には祠が祀られ、37体の石仏群がみられます。

さらに道を進むと、弘法大師像なども祀られ、さらに芭蕉句碑などを見ながら、ぐるっと一周して奥の院へと出るようになっていました。

句碑から望む対岸にも、先ほどと同じように石仏群が見えます。今回通行止めになっていて、見ることの出来ないはずだった滝の上岩窟の石仏群です。

観音山や大石山が望めるポイントに、静かに東奥の院はありました。

石段まで戻る途中「対岸1㎞先に注目」の看板あり見てみると、畠山重忠の家臣・本田親常が矢を射通したという、岩穴「矢抜け穴」がありました。この地方、一帯を牛耳った大豪族とその家臣にまつわる話は多そうです。

--- Monday, November 3, 2014 ---
馬は観音様の眷属(けんぞく=神の使者)であることから、2014年は日本百番観音秩父34ヶ所観音霊場の総開帳の年にあたり、3月1日~11月18日まで、通常秘仏としてある観音様のお姿が拝めます。札所開基が文暦元年(1235年)この年の干支が今年と同じく甲午で、開基から13回目の甲午年となり、60年に1度の特別な開帳年です。
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