秩父札所めぐり|甲午歳総開帳・最終章
2014年12月01日
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33番札所 延命山 菊水寺|曹洞宗
32番札所から一山越えると、その景色は一変して穏やかな里山の風景に。赤平川に沿った田んぼ道を気持ちよく走ると、やがて大きな寺標が見え札所到着を知ります。
寺標には大きく「大櫻山長福寺」とあり、その側面に「延命山菊水寺」と書かれています。菊水寺を管理していた別当が長福寺であり、500m程離れた場所に菊水寺の旧跡が残ります。
永禄12年(1569年)武田信玄率いる甲州軍が秩父に侵入してくると、合戦の一方で住民の不安を煽り服従させため、神社仏閣に火をかけて焼き払うという「信玄焼」を行います。この時、菊水寺の本尊が長福寺に移されたといわれています。

境内には埼玉県最古の句碑といわれる松尾芭蕉のものが見られます。芭蕉の50回忌にあたり、寛保年間(1741~43年)建立されたもので、こちらの案内にも「長福寺の~」と書かれています。句碑には「寒菊や 粉糠のかかる 臼の端」と刻まれています。
寺名は、庭に「菊水の井」という名井があったことに由来するそうです。現在では、手水鉢に白菊の咲く様子が見られます。

境内に見られる石灯籠は有章院(7代将軍・徳川家継)|増上寺
文政3年(1820年)建立の観音堂は、間口八間、千鳥破風流れ向拝付き。
ご本尊は平安時代末期の作と伝わる、像高88㎝ 檜材一本造りの聖観世音菩薩。
向拝の内部は広い土間になっているので、本尊を間近で拝めるようになっています。

納経所も堂内にあるのですが、欄間の彫刻も見事!それに加え、左右の壁面には秩父に生まれ、秩父聖人と称された井上如常の「子返しの図」と「孝行和讃」の大絵馬が掲げられていました。
我が子を圧殺する女の絵が描かれた「子がえしの絵図」は江戸時代には良くあった子返し(間引き)をいさめたというもの。もう一方の「孝行和讃」は、唐の楊夫人が我が子を差し置いてまで姑の老婆に乳を与えている絵で、親孝行の大切さを説いたもの。どちらも貧しい暮らしの中にあり、人倫の道を諭したものです。御朱印を待つ間、ずっと首が痛くなる程 天上を眺めていました。


その昔、このお寺は南東の方角、500m程離れた八人峠という所にありました。峠にはいつの頃か8人の盗賊が住み着いたため、この名がありました。行基の利益を受けると、盗賊は僧となります。その後1人の僧が訪れ、現在の場所にお堂を移します。
広く観音を信仰していた楠正成は、自分の菊水紋と同じ寺名に縁を感じ、常に遥拝し武運を祈っていました。赤坂の城に籠城の折、兵糧も尽き、計略をめぐらし城が落ちる時、正成はただ1人で攻め寄せてくる軍勢に紛れて行きます。長崎四郎左エ門の馬屋の前を忍び通る時、敵に見つかり「お前は何者だ。」と咎められます。「大将の身内の者です」と言い、正成は足早に通り過ぎようとしますが、逃れられず、追手が放った矢が正成の肘に当たってしまいます。ところが、痛みを感じなかったためその場からも無事逃れることが出来ました。後日、肌身離さなかった「観音経」を開き見ると、「一心称名」の二句の間に矢の根が立っていたという霊験が伝わります。
右:33番札所 菊水寺 御朱印

『春や夏 冬もさかりの 菊水寺 秋のながめに 送る年月』
【秩父観音霊場 結願寺】34番札所 日沢山 水潜寺|曹洞宗
江戸から来た巡礼者を考慮したルートになっているため、我が家から秩父に向かう際、実はこの34番札所が一番最初に出会うお寺でした。何度も付近を通過し、すっかり名前を覚えていた水潜寺は、秩父三十四霊場と日本百観音霊場(西国、坂東、秩父)の結願寺として、巡礼者が打留めの札と笈摺を納めたお寺です。

参道入り口に見られる石灯籠2基は有章院(7代将軍・徳川家継)|増上寺
ご本尊は室町時代の作と伝わる一木造りの千手観世音。
脇侍に西国をかたどる西方浄土の阿弥陀如来と、坂東をかたどる東方瑠璃光世界の薬師如来とが祀られて、日本百観音結願寺の特殊性を出しています。
また結願寺らしく、観音堂内の右手奥には、打留め笈摺や金剛杖、輪袈裟など、苦楽をともにした巡礼道具や、千羽鶴などが納められています。

文政11年(1828年)江戸在住の人々の寄進により再建された観音堂は大きな流れ向拝をつけた六間四面の方形造り。懸魚には鳳凰、向拝蟇股には龍や犀と思われるもの、さらに上段は物語のようになり、何人もの人物が彫られ、木鼻は獅子と獏、柱にも飾り模様が彫られ見事です。

天長元年(824年)東國大旱魃によって雨が無く大変困っていると、1人の不思議な僧が現れて里人に向い、雨が降ることを祈り「澍甘露法雨」と書いた札を立て「観音を信心せよ」と言うので、教えとおりに祈っていると、三日目に蓑笠を着た身の丈六尺余の法師が山の上の岩に笈をおろし、持っていた杖で岩を突ば、たちまち水が湧き出て滝のように流れ出たので、里人はとても喜んでこの法師を敬いました。
法師は、六十余りの州を巡ってこの霊地に来た、西国をかたどりって阿弥陀をおき、坂東をかたどりって東方の薬師をおき、さらに観音をおくことで、ここは百番順礼の結願所となる、この後必ずや熊野権現をはじめとし、数多の権現来るので、信心を怠らぬようと言い去ると、間もなく法雨が降り人々の命が助かったことが、札立峠の名の由来といわれています。
観音堂前には、百観音宝前のお砂を納めたお砂踏みがあり、この上で三体のご本尊を拝めば、百観音巡礼の功徳が得られると信じられています。

観音堂右手崖には「水くぐりの岩屋」(鍾乳洞)があり、これがお寺の名の由来になっています。
巡礼を終えた人々は、この岩屋から湧き出る清水に足を浸して再生儀礼の胎内くぐりを行い、長命水をいただき、笈摺を納め、心身共に清浄になって俗世の生活に戻ったといわれています。(現在は崖崩れの危険があるため、立ち入り禁止になっています。)

境内には、苔生した水鉢に岩屋からひかれた長命水が流れ込み、そのご利益をいただくことができます。
長命水の隣には「水潜寺水かけ地蔵尊」が祀られています。頭上から3杯水をかけ、願い事を3度唱えるものです。

観音堂向かって左側境内の様子です。

手前にあるのは、日本百観音 結願堂です。西国、坂東、秩父の百観音のお砂を踏みながら、功徳車を回すようになっていました。
秩父霊場の最初に懐かしい名前が連なります。今となっては全て思い出の中です。
お堂前にも、同じ百観音霊場のお砂場が設けてありました。

その奥には、仏足跡が納められた佛足堂があります。
お堂前には「一石一字写経奉納」があり、ちび子と2人、決められた1文字づつを書いて奉納してきました。

境内には、皆野町が出身地という金子兜太句碑をはじめ、万葉歌碑なども見られます。

さて、最後の修行の場はここかぁ!
結願寺らしく、みなさん御朱印を頂戴するために行列になり、整然と待っていらっしゃるのです。

最後だからと、お守りを買うため別所でも順番待ちでしたが、対応して下さったお寺のおばあちゃんが、観音様のようにおっとりと優しい人でした。

『萬代の 願ひをここに 納めおく 苔の下より 出づる水かな』

最後は千手観音はじめ、三十三観音に見送られながら水潜寺の坂道を後にしました。

おしまいに
34のお寺で、様々な観音様を拝んできましたが、中でも印象深かったのは御本尊以外でも、各寺院の立地や環境、彫刻、歴史など、感銘を受ける部分が多く、中でも8番札所・西善寺のコミネモミジ、16番札所・西光寺の札堂、20番札所・岩之上堂の古堂と奉納されたたくさんの這子、22番札所・童子堂の仁王像、そして26番札所から後半に続く厳しい修行の跡地等、実際に自分の目で見られ、親子共に体感できたことが何よりの感動でした。全行程徒歩の人、観光バスツアー、タクシー、自転車、自家用車と、時代の移り変わりで、巡礼のスタイルもいろいろ。信仰の仕方も人それぞれ。泊り込み旅行が出来ない我が家は、毎回往復で8時間かけて現地入りする都合上、時間の制限もあり、寺院間の移動の殆どは自家用車でしたが、一部の山道を歩き、奥の院と言われる場所へは必ず行き、修行の跡を知る努力はしたつもりです。
きっかけは、何処に転がっているのか分からない…。
当初の動機は「かき氷のついで」だったはずなのに、初日に4番札所の金昌寺で見た慈母観音の姿があまりにも鮮烈で、再び私を秩父へと向かわせます。

毎回一緒なのは、御開帳年と同じ「午年生まれ」のちび子。
午年繋がりが、いつの間にかちび子のステップアップのための道のりになっていた気もします。(奥の院では、1人も子どもに会いませんでしたから)
全ての旅の最後に記事を書きながら、ちび子とこんな話をしました。
午年の度に御開帳になるけど、今年と同じく「甲午」の御開帳が巡ってくるのは、次は60年後だよって。
「私、72歳のおばあちゃんだね。」そういいながら笑っていたちび子。
あなたはまだ生きている可能性のほうが大きいけど、私は煩悩の数と同じ年で石の帽子を被っているでしょうから、子どもの頃、親と一緒に巡ったんだったな。そんな事を思い出してね…と。
深まり行く秋を感じながら散策した記憶は強く、機会があったら、もう1度巡ってみたい気もします。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
--- Monday, November 3, 2014 ---
馬は観音様の眷属(けんぞく=神の使者)であることから、2014年は日本百番観音秩父34ヶ所観音霊場の総開帳の年にあたり、3月1日~11月18日まで、通常秘仏としてある観音様のお姿が拝めます。札所開基が文暦元年(1235年)この年の干支が今年と同じく甲午で、開基から13回目の甲午年となり、60年に1度の特別な開帳年です。
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