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宝登山神社と御朱印|埼玉県秩父

2015年03月28日

集 活
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雪の状態も落ち着き、県境の山越えも心配が無くなったので、いよいよ県外脱出!今年最初の県外遠征は、昨年秋、時間が無くて見られなかった2県数箇所巡りから。

二度目の宝登山神社にて

目的のお店も開店前という9時前到着だったこともあり、まずは宝登山神社参拝から。参拝者も少なく、梅の咲き始めた朝の参道を進むのは、気持ち良いものでした。

宝登山神社

その創建は西暦110年、第12代景行天皇の時代と伝わり、皇紀2670年(平成22|2010年)に、御鎮座1,900年を迎えた由緒ある神社です。その記念事業として、社殿、儀式殿、神札授与所、斎殿などの改修や整備工事が完了しています。

宝登山神社

二の鳥居を潜ってすぐにある手水舎。置かれた手水盤が鋳物製で珍しい。
のちに拝殿前でも鋳物製の天水桶を見ることになりますが、こちらは桶より22年も前に作成され「昭和11年(1936年)12月吉日」と入ったもの。

宝登山神社

身を清め、石段を登った先にある拝殿。その階段上には、ニヤッ!と笑ったように見える「子取り玉取り」の獅子狛犬がありました。

宝登山神社

宝登山神社

日本武尊(ヤマトタケルノミコト=第12代景行天皇の皇子)が、東国地方を平定後に宝登山を目指し、山頂にて三神(始祖の神武天皇、山の神、火の神)を祀ったのが神社のはじめと伝えられています。
登山の道中、尊らは山火事に見舞われてしまいます。そこへ白と黒の2頭の犬(大口真神=オオカミ)が姿を現し、火を消し止めて尊を助けたといいます。2頭は尊を山頂まで案内すると、また姿を消してしまいました。尊は犬たちを神からの使いと信じ、「火止(ほど)山」と名付け神を祀りました。その後火止山は霊場として栄え、弘仁年間(810~824年)に「宝珠の玉が輝きながら山上に飛翔する」という神変が起こり、山の名と神社の名はこの吉祥時によって「宝登山」に改められています。
このような起原から、宝登山神社は火災避け、盗難避けなどのご利益で知られていて、「宝の山に登る」という縁起の良さからも、地元ばかりだけでなく、関東一円からも年間で百万人規模の参拝者が訪れるといいます。

宝登山神社 社殿

本殿、幣殿、拝殿から成る権現造りの社殿は、明治初期に造り替えられたものです。
平成22年に改修され、その艶やかなコントラストに目を奪われます。

宝登山神社_社殿

向拝はもとより、欄間や脇障子にも鮮やかな色彩を持つ見事な彫刻が施されています。
その見事さは日本だけに留まらず、平成23年には世界的な旅行ガイドブック「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」にも 一つ星として掲載されたという神社です。

宝登山神社_向拝

懸魚の鶴。柱や虹梁などは真っ白に塗られ、そこに踊る数色の龍の向拝。

宝登山神社_向拝

木鼻には、柱に絡みついた龍の姿がありました。また扁額周辺には、中国の神話で天の四方角を司る霊獣「青龍、朱雀、白虎、玄武」の四神も見られました。

宝登山神社_木鼻

拝殿側面には、中国儒教の教えにある「二十四孝」の彫刻が飾られています。(右側)

宝登山神社_社殿彫刻

欄間彫刻(二十四考のうち4話)

【舜(しゅん)】
舜は大変な親孝行者でした。父は頑固者で母はひねくれ者、弟は能無しでしたが、ひたすら孝行を続けました。皇帝は舜の孝行心に感心し、舜が田を耕しに行くと、皇帝が差し向けた白象が現れて田を耕し、鳥が来て草を取って助けました。皇帝をは舜に娘をとらせ、堯王の後を継いだ舜は徳政に励みました。

【唐夫人(とうふじん)】
唐夫人は、姑の長孫夫人に歯がないのでいつも乳を与え、毎朝姑の髪をすいて、その他様々なことで仕えました。長孫夫人は死の床で義を重んじた嫁の孝行を褒め讃え、また感謝もしました。(写真 左上)

【郭巨(かくきょ)】
郭巨の家は貧しかったが、母と妻を養っていた。子どもが産まれると母は孫を可愛がり、自分の少ない食事を分け与えていた。夫婦であれば子どもはまた授かるだろうが、母親は二度と授からない。この子を埋めて母を養おうと地面を掘ると、黄金の釜が出てきたので持ち帰り、子を埋めること無く考を尽くしました。

【王祥(おうしょう)】
王祥は継母からひどい扱いを受けますが、恨みに思わず大変孝行をしました。冬の極寒の際に魚が食べたいと言われて王祥は河に行きますが、氷に覆われ魚はどこにも見えません。衣服を脱ぎ、氷の上に伏して大漁を祈ると、氷が割れて魚が踊り出て掌中に納まりました。(写真 左下)

脇障子

三国志などの中国古典の逸話が描いてあります。
【赤兎馬(せきとば)を駆る関羽(かんう)】
関羽は劉備の臣ですが訳あって曹操に仕え、一日に千里を駆ける名馬「赤兎馬」を授かり、劉備に対する忠義の心を持ち活躍します。後に孫権によって処刑されますが、その才覚が霊験あらたかとして、「廟」に祀られ信仰を集めます。

左側彫刻
宝登山神社

欄間彫刻(二十四考のうち4話)

【剡子(えんし)】
剡子には年老いた両親がおり、眼を患っていました。鹿の乳が眼の薬になると、剡子は鹿の皮を身に纏い鹿の群れに近づくと、そこへ猟師が本物の鹿と間違えて射ようとしますが、孝行の志が篤いので射られずに帰ることができ、親孝行をすることができました。

【子路(しろ)】
孔子十哲の1人の子路は、家が貧しくて遠い所まで米を担いでは賃金をもらって母親の孝行していました。その孝行の恵み深いものがあって、母が死んでから楚の国の役所に務める事ができ、富みや地位を得ます。子路は、今親があって仕える事ができれば、どれだけ喜こんでもらえるかと嘆いたと言います。

【楊香(ようこう)】
ある時、楊香が父と山に行った際に虎が出て来て、2人を食べようとしました。「天の神よ、どうか私だけを食べて、父は助けて下さい」と懸命に願ったところ、虎が尻尾を巻いて逃げてしまい、親子の命は助かりました。

【孟宗(もうそう)】
孟宗は、年老いた母親を養っていました。病気になった母がある冬「筍が食べたい」といいます。冬に筍があるはずもなく、孟宗は天に祈りながら竹林の雪を掘ると、あっと言う間に雪が融け、土の中から筍が沢山出て来ました。母はたちまち病も癒え、天寿を全うしたといいます。

脇障子

三国志などの中国古典の逸話が描いてあります。
【長坂坡(ちょうはんは)に戦う趙雲(しょううん)】
趙雲は三国志に登場する好漢の一人で、愛馬「白龍」と長槍を持って活躍。劉備が曹操軍と戦う「赤壁の戦い」に先立つ「長坂坡の戦い」で、劉備の子「阿斗(あと)」を預かった趙雲はこれを守り奮戦し諸葛孔明をして「蜀の柱石であった」と死後もおおいに讃えられます。

宝登山神社本殿

宝登山神社_本殿

本殿2面の脇障子

宝登山神社_本殿脇障子

【黄石公(こうせきこう)と張良(ちょうりょう)】
秦打倒を企てる韓の偉臣張良の前に黄石公という老人が現れます。老人は張良の器を見定めるため、何度も沓(くつ)を拾わせるなど試練を与えます。ついにいくつもの試練に耐えた張良は太公望不敗の兵法書を授けられ、劉邦の軍師として漢の建国を助けます。

【西王母(せいおうぼ)と東方朔(とうおうさく)】
前漢の武帝は不老不死を願い、ついに仙人の西王母と会うことが適い、不老不死の仙桃を授かることになりました。武帝に知略知己を以って仕える東方朔は、三千年に一度しかならない仙桃を盗み食いし雲に乗り逃げ出し、八百歳の年を数えたといいます。

本殿裏の懸魚の左右には、雲形の鰭が従い、花弁を想わせる意匠の六葉・樽の口から構成されています。
太梁束には、束を挟んで右側に渦巻く水瀬を泳ぐ鯉の姿を、左には龍へと姿を変えて激しく泳ぐ「登り龍」が表されています。

宝登山神社

拝殿前左右に見られる鋳物製の天水桶。「昭和33年(1958年)4月吉日」奉納で、鋳造者は鈴木文吾となっています。文吾は川口市の鋳物師鈴木萬之助の三男であり、父の後を継いで国立競技場の聖火台を造り上げた人物です。

宝登山神社

色鮮やかな拝殿と、重厚な鋳物が良くマッチし、見事な景観を作り上げています。
見学している時間帯、朝の祝詞があがっていました。

神楽殿と藤谷淵神社

拝殿左手境内には「神人和楽」と書かれた神楽殿(▼写真左)。大正11年11月26日に秩父宮殿下が御手植えされたもの、昭和29年6月30日に秩父宮妃殿下が御手植えのものと、2本の記念樹(▼写真中央)さらにその奥に「藤谷淵神社」が並んで見えます。

宝登山神社_神楽殿

藤谷淵神社の御祭神は伊勢大神(天照大神・豊受大神)、八坂大神(素戔嗚命)、野栗大神(田畑の疫除の神)、諏訪大神(建御名方神)、琴平大神(大国主命)、熊野大神(伊弉冉命)、榛名大神(埴山毘売命)、竃三柱大神(奥津比古命・奥津比売命・火産霊命)と、たくさんの神様が祀られていますが、明治時代まで藤谷淵村(現在の長瀞町長瀞)の各所にあった8社を、この地に遷座してお祀りしたためです。

水神社

宝登山神社_水神社

神楽殿脇から湧き出る水の神をお祀りしたお宮です。

招魂社

明治、大正、昭和の戦争で、国のために命を捧げた長瀞町出身者が祀られています。春と秋の彼岸には、戦没者の功績を讃える慰霊祭が行われるそうで、きっと私たちが帰ったあと、ここで執り行われていたのだと想います。

みそぎの泉

宝登山神社_玉の泉

本殿脇付近に、日本武尊が宝登山に登る前に身を清めたという「みそぎの泉」があります。神聖な泉で「玉の泉」とも言われます。投銭によって水が濁ってしまうので、投銭禁止の張り紙がされていました。

日本武尊神社

泉の向かいに日本武尊神社があります。もちろん祀られているのは第12代景行天皇の皇子である日本武尊です。
東国平定の折、この山の神秘な雰囲気と美しい姿に心ひかれた尊は、艱難辛苦の末山頂に立たれ、この地を神を祀るに相応しいところとされ、宝登山神社の礎とされました。
尊の恩徳を偲ぶ人々は、尊が登山の際、身をお清めになった泉近くに、このお宮を奉斎しました。
日本武尊社のお祭りは八十八夜(5月2日)に行われ、尊の登頂の故事に倣い、ここに奉遷された御神霊は奥宮に赴き祭典が斎行され、神楽が奉奏されます。

天満天神社

宝登山神社_天満天神社

当初、別当・玉泉寺を開基した僧によって菅原道真公が勧請されましたが、その後、他所に祀られる二社を合祀し「天満天神社」と号し、学問・書道の神さま、また農業守護の神さまとして慕われ、信仰されています。
祭日は、古くは1月25日を「初天神」と定め、子どもたちがお宮に参拝し、書初めを神前に納め、宿になる家に集まりカルタや双六、食事におやつと、楽しい一日を遊び過ごしたものでした。
今は1月25日に近い土曜日を「初天神」と称し、進学、受験をひかえた子どもと親が参列し、学業成就と進学達成を願う、「勧学祭」が行われます。昔ながらの書初めや志望校への進学を願う、願掛け絵馬が社前に納められます。

宝玉稲荷神社

天満宮の先にある小橋を渡った先にある宝玉稲荷神社。

宝登山神社_宝玉稲荷神社

お宮は文政5年(1822年)12月14日、伏見稲荷社から倉稲魂神(うかのみたまのかみ)を勧請しお祀りしました。五穀豊穣、商売繁盛、家内安全など福徳をもたらす御神徳の高さから、長瀞町内外多くの方々に崇敬されています。また、紛失物があるときにお参りすると、失せ物が戻りご利益が得られると信心されています。
宝玉稲荷神社のお祭は、初午祭(2月初午)のほか、毎月15日「御炊上祭」と呼ぶ特別な神事があります。「御炊上祭」は午後3時、福徳を祈ったのち、神使の「御白狐」(オビャッコ)御饌津(倉稲魂神)に先立ち、力強く御神徳を発揮するようにと、アズキ飯と御神酒を山中の磐座に、お供えします。

宝登山神社

宝登山神社 御朱印

宝登山神社_御朱印

その他境内地の様子

御神馬像
宝登山神社_ご神馬像

関東の春は早く、境内の梅は満開の時を迎えようとしていました。
その中、ようやく1~2輪咲き始めた桜を発見!「伊奈桜」とあります。

宝登山神社

江戸時代初期、武蔵野国丸山城主・伊奈備前守忠次の献木した彼岸桜を初伏とするもので初代伊奈桜がその天寿を全うしたのを惜しんで若木を補植したとの説明がありました。
伊奈家は備前守忠次をはじめとし、長く徳川家に仕え、関東郡代、勘定奉行などの要職に就き、幕府直轄の関八州、駿河、遠江、三河などを広く治めます。特に利根川の治水と農地の改良に尽くし、備前堀、伊奈町などその名を今に残しています。

おしまいに

宝登山神社には奥宮が存在します。今回は行かなかったのですが、ここには犬飼いにはちょっと気になるものが…。
またいつか、時間をみて訪ねたいと思いました。

Saturday, March 21, 2015_〆(・ω・o)
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そふぃあ
Posted by そふぃあ
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