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日蓮宗大本山 池上本門寺と御朱印|東京都大田区

2015年05月30日

集 活
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日蓮宗の我が家。上京した際に行ってみたかったのが、池上本門寺でした。

池上本門寺

9月、9年間住み慣れた身延山(山梨県)を出発し、常陸(茨城)へ湯治療養のため向かわれます。しかし、その途中の10月13日、武蔵国池上の郷主であった池上宗仲公の館で亡くなってしまいます。
日蓮大聖人御入滅の後、池上宗仲公は法華経の字数に合わせて約7万坪の土地を寄進され、そこに池上本門寺の基礎が築かれました。

惣門と扁額

池上本門寺

安藤広重の「江戸百景」や「江戸近郊八景」にも描かれている惣門は元禄年間(1688~1703)の建造と伝わり、昭和20年(1945年)の戦災をも免れた、本門寺内に現存する古い建造物の1つです。高さ6.4m、主柱間5.39m、総欅素木造りの簡素かつ壮大な構えの門です。
扁額の文字は、「寛永の三筆の一人」と称された江戸時代初期の書家・本阿弥光悦の書を彫刻したもので、現在掲げられているのは、そのレプリカです。

此経難持坂(シキョウナンジザカ)

池上本門寺

惣門潜ってある石段は、熱心な法華信者で築城家としても有名な加藤清正公の寄進によって造営されたとつたわるものです。
「法華経」宝塔品の偈文96文字にちなんで96段に構成されています。
清正公は、慶長11年(1606年)に祖師堂を寄進建立し、寺域を整備しているので、この石段もその頃のものと思われます。
なお、石段は元禄年間(1688~1703年)の頃に修復されていますが、造営当時の祖形を残していて貴重な石造遺構です。

日蓮聖人説法像

日蓮宗大本山 池上本門寺

宗祖七百遠忌記念のとして、昭和58年に富山県新湊市の黒谷美術株式会社より奉納されたものです。
像制作は「長崎平和祈念像」でも有名な、北村西望先生によるものです。
「我、日本の大船とならん」とでも仰っているのか?

仁王門(三門)

日蓮宗大本山 池上本門寺

旧仁王門は、慶長13年(1608年)徳川二代将軍・秀忠公が五重塔と共に建立したものでした。しかし、昭和20年(1945年)の空襲で消失し、昭和52年(1977年)に再建されています。また旧仁王尊は、和銅3年(710年)行基菩薩作と伝える古像であったといいます。現在安置されている仁王尊は、昭和54年(1979年)に新造されたものです。
長栄山本門寺という名前の由来は、「法華経の道場として長く栄えるように」という祈りを込め、日蓮大聖人が名付けられたものです。

大堂(祖師堂)

日蓮宗大本山 池上本門寺

旧大堂は、昭和20年(1945年)の空襲で消失、戦後は仮堂で凌いでいました。その後、昭和39年(1964年)鉄筋コンクリート造の大堂が再建されています。

旧大堂は、加藤清正公が慶長11年(1606年)に、母親の七回忌追善供養のために建立したものでした。
その大きさは、間口25間の堂々たるもので、清正公が兜を身につけたまま縁の下を通ることができたといわれています。江戸の人々は「池上の大堂」と称し、これに対して上野(寛永寺)は中堂、芝(増上寺)は小堂と呼んだと言いますから、その壮大さが伝わってきます。
旧扁額「祖師堂」も、惣門同様に本阿弥光悦筆だったそうですが、その他のお堂共々、戦火によって悉く消失しています。

日蓮宗大本山 池上本門寺

ご本堂内陣中央には祖師像(日蓮大聖人)、向かって左に第2世・日朗聖人像が、そして右には第三世・日輪聖人像が安置されています。

日蓮宗大本山 池上本門寺

外陣天井には、大正、昭和の日本画壇の巨匠・川端龍子の「未完の龍」が見られます。
天井絵の制作に入る頃、龍子画伯はすでに足腰の衰えが目立ち、周囲に支えられて製作が行われました。しかし、製作に対する意気込みは衰えることなく、凄まじく壮絶な作業になったそうです。その完成を見ることなく龍子画伯は亡くなってしまいます。
なので未完。しかし、遺族の意向もあり、その睛を奥村土牛画伯が点じて開眼供養を遂げます。そんな、川端龍子画伯の遺作です。

日蓮宗大本山 池上本門寺
池上本門寺 御朱印

経蔵

日蓮宗大本山 池上本門寺

戦火を免れた建造物の一つです。昭和46年(1971年)現地に移築されています。
経蔵内部には芯柱を中心に回転する八角形の輪蔵があり、かつては天海版一切経が収められていました。
「新編武蔵風土記稿」によれば、天明4年(1784年)に再建されたものと思われ、経蔵内部の柱等には、工事に関係した職人をはじめ、講名や住所等が刻まれ、経蔵建立時の寄贈者が広範囲に及んだことが伺えます。

多宝塔

日蓮宗大本山 池上本門寺

日蓮大聖人の御尊骸を荼毘に付した霊蹟に経つ供養塔です。
建立は日蓮大聖人五百五十遠忌を期に行われ、江戸芝口講中の本願より文政11年(1828年)に上棟、文政13年(天保元年)に開堂供養がされています。

日蓮宗大本山 池上本門寺

石造の方形基壇に築いた円形蓮華座の上に建つ木造宝塔形式で、内外共に漆や彩色によって華やかな装飾が施されています。塔内中央には、金箔や彩色で装飾された華麗な木造宝塔を安置し、日蓮大聖人御所持の水晶念珠が奉安されています。

池上大坊 本行寺

多宝塔から僅かに下がった場所に位置する 池上大坊 本行寺(通称:大坊) は、日蓮大聖人がご臨終を迎えられたご霊場です。もともとは池上宗仲公の館があった場所ですが聖人の入滅後に館を寄進し、お寺としたのが大坊です。
正面の赤門はその証しとして、格式の高さを示すものです。

池上大坊 本行寺

池上大坊 本行寺

境内には、日蓮大聖人が最後の講義をされたときの「お寄り掛かりの柱」や、亡くなられるときに一斉に咲いたという「お会式桜」があります。

ちなみに、「大坊」という呼び名は、池上本門寺の支院並びに末寺を代表するお寺であるという意味の尊称だそうです。

池上大坊 本行寺

本堂向かって右手に、様々なお堂が建ち並びます。

池上大坊 本行寺

御灰骨堂(おはいこつどう)

池上大坊 本行寺

ご遺体を荼毘に付した時の御灰を収取し、安置したお堂です。
現在のお堂は、昭和54年(1979年)に、本門寺より大聖人旧御廟所の建物を移築したものです。

全てが開かれ、お参りする時には気づかなかったのですが、すでにお寺の門も閉まりそうな時間帯だったため、次に通った時には扉が閉まり、見事な龍の扉彫刻を見ることができました。(“昭和24年 祝春 塚原桂月刻”と銘が入っています。)

池上大坊 本行寺

瘡守稲荷(かさもりいなり)は、神仏習合時代の名残りなのかと思いきや、縁あって昭和57年に移転したものだそうです。

御硯井戸(おすずりいど)

池上大坊 本行寺

日蓮大聖人が身延山からご到着された翌日、それまで9年間庇護をして下さった波木井実長公に、感謝をしたためた書状を出されたそうで、その時にこの井戸の水で墨をすり書かれたのだとか。

ご臨終の間

そして本堂左脇を抜けた先に、日蓮大聖人がご入滅された部屋跡に建てられたご臨終の間があります。

池上大坊 本行寺

ご臨終の間は、池上家の仏間であった部屋。
滞在中、すでに聖人は重い病だったそうですが、最期までの約1ヶ月の時を、ここで講義されたそうです。

池上大坊 本行寺

堂内の中央には「自鏡満願の祖師像」と、日蓮大聖人の大檀越であった宗中夫妻の「池上宗仲公御夫婦像」(非公開)などが奉安されています。
ご講義の際、大聖人が最後まで寄り掛かっていたとされる、龍の彫刻の「お寄り掛かりの柱」が残され、730年の時を越え、その一部を間近で目にすることができます。

おしまいに

こちらのお寺は4時閉門のはずなのですが、GW期間中で参拝者も多く、時間を過ぎて見学させていただいた箇所も多かったのです。
まだまだ重要箇所もあったのですが、参拝者が帰らないと、駐車場も締め切れない状態でしたので、今回はここまで。
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そふぃあ
Posted by そふぃあ
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