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二本松城址

二本松城址

----- Friday, May 4, 2018 ----------  Dawn太(生後1,163日)
GW後半は、2日続けて雨予報の我が県。。。
そんな県内を脱出し、少しはお天気良さそうな福島県へとやって来ました。

お邪魔したのは、結婚する前にたった1度、秋に菊人形を見に行ったことのある二本松城址。
高速を移動中は、福島入りしてもまだ雨の時間帯もありましたが、到着するころにはすっかり良いお天気になってくれ、作戦成功!といった感じでした。
二本松城址
車を停めると、その真正面に見える石垣や門櫓が見事で目を奪われますが、まずはこの像に目を向けましょう!

復元された箕輪門下の千人溜にある「少年隊群像」
会津戊辰戦争といえば、白虎隊の悲劇が広く知られていますが、ここ二本松も激戦地のひとつで、白虎隊より大きな悲劇が残る場所。戊辰戦争でふるさとを守るために若い命を散らした、二本松少年隊を顕彰する群像です。
二本松城址
当時の二本松藩には「入れ年」といい、現在でいう12歳で出陣可能となってしまう制度がありました。慶応4年(1868年)7月の戊辰戦争の折り、12歳から17歳までの少年62名が出陣。同7月29日、木村銃太郎隊長率いる少年25名が果敢に戦うも、正午ごろ二本松城は炎上により落城しています。白虎隊の少年たちは、鶴ヶ城が炎上している様子を見て落城したと思い自刃していますが、二本松少年隊の場合は戦死であるという点が大きく異なり、さらなる悲劇として歴史に残るものです。
銅像は彫刻家・橋本堅太郎氏(二本松市名誉市民)制作によるもので、平成8年(1996年)7月28日建立されています。


日本100名城の一つである「二本松城」は、標高233m付近となる麓の居館部と、標高345m白旗が峰に築かれた城郭からなる梯郭式の平山城で、国の史跡となっています。(別名:霞ヶ城 / 白旗城)
二本松城址
二本松城の築城の歴史は古く、応永21年(1414年)に二本松氏(畠山満泰)が塩沢の田地ケ岡よりこの白旗ケ峯に居を移し、二本松城と号したとされています。
天正14年(1586年)に伊達政宗が二本松氏(畠山氏)を滅ぼしたことで伊達氏の支城となり、片倉景綱、伊達成実といった有力家臣を城代としていました。豊臣秀吉による奥州仕置以降は蒲生氏郷や上杉景勝が会津若松城に入城し、二本松城はその支城として城代が置かれるようになります。その後、松下氏、加藤氏の時代を経て、寛永20年(1643年)に丹羽長秀の孫にあたる丹羽光重が十万七百石で入封。明治維新まで二本松藩主・丹羽氏の居城となりました。城内の石垣などの修築を行うとともに、城下の町割や整備を行い、現在の二本松市街地の原型となる礎を築き上げます。
奥州の要として機能した二本松城は、戊辰戦争の際にも重要な役割を果たしましたが、慶応4(1868年)7月の二本松少年隊の悲話を残し落城しました。
その後の明治6年には城跡に二本松製糸会社(後の双松舘)が建設されるなど、地域の近代化に大きな役割を果たしました。
現在の城址は「霞ヶ城公園」として整備されており、麓には復元された箕輪門、山頂の本丸には天守台が再建されており、それぞれに見所となっています。昭和30年から城址公園内で秋に開催される「二本松の菊人形」は有名なところ。また春は桜が咲き乱れ、城全体が霞に包まれたような景色になることから「霞ヶ城」との別名もあります。

二本松城は山頂部が中世に築城された部分、山麓と麓が近世代の城郭であるため、見所が山頂付近と麓の2箇所に別れています。
二本松城址

箕輪門 戊辰戦争によって焼失していましたが、市民の声により、昭和57年(1982年)に再建されています。城の正門にあたり、江戸初期の城主であった丹羽氏による建造です。城下箕輪村山中にあった樫の大木を主材としているのでこの名があります。
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180度に屈曲する枡形も堅城の証で必見です!
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三ノ丸 丹羽氏が居住した御殿跡で、寛永初年(1630年頃)に加藤氏が中世城館を近世城郭に改変したことにより、上下2段に分かれているのが特徴です。戊辰戦争によって建造物が焼失した後、明治6年(1873年)から二本松の近代化を支えた「二本松製糸会社」(のちの「双松舘」)として活用されました。
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今回、私たちを二本松に向かわせるきっかけとなったのが、霞ヶ池にあるこの「智恵子の藤棚」でした。見頃に出会え、今回の旅が、智恵子に導かれたような気がしました。
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この藤棚は「智恵子抄」でも有名な、高村幸太郎の妻・智恵子の生家の庭先にあったもので、二本松町長であった今泉修二氏が、自宅の庭にあったものを寄贈しています。
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光重公が造園した「るり池」の下にある霞ヶ池
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霞ヶ池から上がった高台にある洗心亭(昭和51年二本松市指定有形文化財)
丹羽藩主時代、霞ヶ城内の庭園にいくつかあった茶室の一つ「墨絵の茶屋」です。天保8年(1837年)に起こった山崩れで墨絵の茶屋が倒壊し、これを阿武隈川河畔に移して再建。藩主の釣り茶屋となっていたものを、のちにこの場所に移し「洗心亭」と名付けています。江戸時代から残る唯一の建物です。
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向かう山道は足にも優しく、歩きやすいウッドチップの歩道もありました。
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二本松藩士自尽の地 戊辰戦争で二本松城は、薩摩・長州・土佐藩士を主力とした西軍7,000名に攻められ、天守が炎上し落城となりました。戦死者337名以上、負傷者58名以上、他藩の戦死者208名以上という、戊辰戦争中最大の壮絶な戦いとなりました。二本松藩の主戦論者であった家老・丹羽一学、城代・服部久左衛門、小城代・丹羽新十郎の三名が責任をとって自尽(割腹)したといいます。
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日影の井戸 千葉県印西市の「月影の井戸」、神奈川県鎌倉市の「星影の井戸」とならび、「日本三井戸」の一つと称されています。
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応永年間(1400年頃)畠山氏築城の頃に造られたといわれ、井戸は深さ16m、さらに井戸の岩盤をえぐり、北側14mの位置に達しています。井戸を造った最初の藩主・畠山氏の抜け穴になっていたという説も。
今でもなお水をたたえた井戸。伊達氏との籠城戦の際にも使われたことでしょう。
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本丸下南面大石垣 二本松城に築かれた、最も古い石垣のひとつです。
築石は野面石と荒割石が用いられ、その積み方は古式の「穴太積み」と呼ばれる特徴的な石のデザイン・テクニック。二本松城が会津領の支城となった慶長初期頃、蒲生氏郷に抱えられた城郭石積み技術集団「穴太衆」によって築かれた石垣です。
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いよいよ本丸へ!
本丸直下東側にある乙森(二ノ丸の役目をした)前辺りからは、本丸の面石垣が見事です。
東日本大震災の際、二本松は震度6弱を記録しています。石垣が崩れる事は無かったそうで幸いでしたが、かなりのズレや吐出が生じたそうで、その後の平成24年に半年程度の工期によって修復が行われています。
二本松城址

本丸内へと向かう虎口の階段はとても急で、観光に来たお年寄りなど、手すりがあって有難いくらいだと思いました。
二本松城址
居合わせた小学生の男の子に「犬がここ上がれる?」と言われましたが、ヒョイヒョイと上がっていくDawn太の姿に、小学生もビックリ!犬は四つ足ですから、このくらいのキツイ階段は人間よりも上手に上がれますよ。

枡形虎口を抜けると到着の本丸。
標高345mの「白旗が峰」に築かれた城郭なので「白旗城」の別名を持ちます。
二本松城址
本丸の北側隅(写真正面右の石垣)に天守があり、東西の2箇所に櫓が上がっていたようです。

天守台 二本松城本丸石垣は、安土城の石垣を積んだ「穴太衆(あのうしゅう)」と呼ばれた優れた石工集団によって積まれました。平成7年に本丸(天守台跡)の石垣が再建されています。その時の工事に携わったのは、その同じ集団の末裔たちだったそうです。(震災後の修復作業も、同じ集団だったのだと思われます。)
二本松城址
天守台には三重の天守があったという説もありますが、天守に関しての詳しい記録が無く、発掘調査でも建造物に関しての発見は少なかったようです。

天守台からは、まだ雪の残る安達太良連邦が望めて爽快な気分になれます。
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天守台から本丸内と城下方向を望む(左手奥は東櫓台)
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東櫓台より枡形虎口の様子(右奥に写るのは西櫓台)
二本松城址

東櫓台の上からは、東側に向かって不規則に並ぶ郭の様子や、直下にある大手道などがよく監視できます。
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箕輪門から本丸まで、その高低差は112m。独立丘陵でないこともあり平山城という括りのようですが、山頂の標高からも、これはもう立派な山城であると思われます。
二本松城址

天守に2つの櫓。。。この高さからなら、360度くまなく下の動きが監視できますね。
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本丸内にある城代・丹羽和左衛門と勘定奉行・安部井又之丞の自刃の碑
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難しい話は苦手なお犬さまを連れ、搦手方面の石垣などを見学しながら下山していきます。
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平成3年(1991年)3月から5ヵ月にわたって実施された発掘調査により、すでに倒壊し滅失したと考えられていた石垣の②~⑥面までの長さ80mにわたる遺構が検出され、はじめて本丸の形状と規模が判明しています。
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石垣の特徴的な積み方のひとつである慶長期の「穴太積み」や、元和・寛永期の各様式のほか、江戸後半期の様式が確認されました。これらの貴重な石垣を後世に残すべく、平成5年(1993年)8月から石垣の全面改修・復元工事に着手し、平成7年(1995年)6月に完成しています。
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面石垣⑩の内部には、別の石垣が保存されています。面石垣⑩の解体後、裏土の精査中に長さ7.6m、最も残っている部分で高さ1mで三段になった古式「穴太積み」の石垣が発見されました。
旧石垣は、会津藩主・蒲生氏郷が二本松城に初めて築いた慶長初年の石垣。
面石垣は、のちの会津領主・加藤氏が修築、拡張した寛永初年の石垣です。
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搦手門跡 大手門とは逆の、近世の裏手門があったところです。
二本松城址

平成13年度の発掘調査で新旧2時期の門跡が確認され、蒲生氏時代に冠木門であったものが、加藤氏の時代に石材を用いて整備したことが明らかになっています。
第一期は冠木門で、現存する礎石のやや南側で発見されました。直径30㎝ほどの柱の根元が残存していて、栗材であったと鑑定されています。
第二期は現存する礎石の時期で、この礎石は据えられた当時のまま残されていることが確認されています。ほぞ穴があることから、扉のつく高麗門である可能性が高いと考えられます。両側には門台石垣が築かれ、その石積み様式から寛永初期の門跡であることが判明しました。
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搦手門近くに残る石垣。
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搦手方面にも、大手筋と同じ年代らしい石積みが!
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下にいる男性がカメラを向けている、あの場所から見上がてみると。。。
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天守台下西面二段石垣 この石垣は、以前からその一部が露出していました。平成6年(1994年)11月の本丸石垣修築復元工事と合わせて発掘調査をしたところ、その全容が確認でき、石垣は斜面に上下の二段で構成され、上下ともに天端左側の一部が欠落していました。
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その積み方は古式「穴太積み」で、天守台を意識して築かれたもの。大手筋のものと同様に、二本松城最古の石垣です。
二段石垣の真上には本丸天守台石垣が見え、城好きにはたまらないアングルになっています。

上段と下段の間は、幅1.6mの犬走り状のテラスで構成されています。
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新城館 二本松城が会津の支城であった慶長6年(1601年)~寛永4年(1627年)の頃、会津領主・蒲生秀行と忠郷の二城代がそれぞれに二本松城内の東城と西城に詰めていたとの記録があり、西城にあたるのが「新城館」です。
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古い記録には、天正14年(1586年)の畠山・伊達両氏の二本松攻防戦の末、畠山氏が自ら本城を焼いて開城し、その後に入城した伊達成実がその後始末をしたとあり、平成10~11年の発掘調査で発見された、人為的に大量の炭化物が処理された穴は、この時の残骸を処理した跡である可能性が高いと判断され、記録の少ない中世二本松城の姿の一端が明らかになっています。
▼少年隊顕彰碑
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戊辰戦争の直前まで藩内少年武士が鉄砲の稽古をした場所で、戦に出陣した隊員64名の顕彰碑を紀元2600年(1940年)記念事業として建立したものです。

とっくり井戸 この井戸は、昭和15年(1940年)には「とっくり井戸」として知られていましたが、近年ではその正確な場所が分からなくなっていました。平成12年度の発掘調査によって再発見され、直径約92m、深さ約7.95mを測る自然石で築いた石組みの井戸であることがわかりました。深さ3.95mあたりから次第に広がり、底径1.4mの井戸底に達していて、この形状から「とっくり井戸」と呼ばれていたようです。
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井戸内は「本丸直下二段石垣」に類似した石の積み方であることから、慶長期(1596~1611年)のものと考えられます。また、発掘調査によって平場北側より仏具のような銅製の椀が出土していることから、畠山氏が熊野権現を祀った「権現丸」と呼ばれる場所であった可能性も高いそうです。(中世時代:1441~1586年)その後の慶長期になると、大規模な土木工事により侍屋敷として使われたらしいことが分かっています。
真上に本丸石垣を見上げ(逆に言えば、本丸からも監視可能な位置)、井戸郭を囲む土塁壁も見事な場所でした。

土塁・空堀 所々に戦国期も色濃い遺構が残っており、長い期間、主を変えつつ普請して使われて来た様子が伺えます。
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位地的には天守台の真下側。戦国期の搦手側防御の要だった場所なのかも知れません。
そういえば天守台下の斜面には、草丈が少し短めでしたが、矢竹のような植物が密集してありました。これも戦国期を彷彿とさせる名残りに感じました。

土塁に付随している空堀ですが、すぐ下には現在の道路があるので、往時の様子も分りかねます。やはり空堀の大きさは越後に限りますね。
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同じく北側の尾根ですが、横堀と竪堀が一体化したような、珍しいL字型をした空堀です。往時は橋が架けられていた可能性があるそうです。
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智恵子抄詩碑 「あれが阿多多羅山、あのひかるのが阿武隈川」
明治、大正、昭和にかけて詩人・彫刻家として活躍した高村光太郎が、妻・智恵子を偲んで詠んだ「樹下の二人」の冒頭の句です。昭和35年(1960年)に建立されています。
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この自然石は「牛石」と呼ばれ、畠山満泰が築城の際に生贄にした牛が石に化したものと伝わります。

二合田用水 二本松藩主初代・丹羽光重の命により城下の整備のために敷整された用水堀で、藩士・山岡権右衛門の発案、算学者・磯村吉徳の設計によるものです。
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城の西方にある安達太良山中腹を水源とし、約18㎞にわたり城防備を目的に引水したもので、城下町へも分水しました。
籠城のためにも、城下の民の暮らしのためにも、良い水の確保は不可欠だったのでしょう。
城内各所の水系にこの江戸期の大土木工事の痕跡を見ることができ、箕輪門前を流れる水路も同じ二合田用水です。
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長い散策で暑くなり、入水希望のボクちゃんが。。。
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カメラなどぶら下げて歩いているので、散歩に来られていた地元の人に「ここに珍しい花がありますよ!」と声を掛けられました。
ハルリンドウといって、日差しがあると開くのだそうですが、この時には日が翳って蕾んだままの姿でした。
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土井晩翠歌碑 「花ふぶき 霞が城のしろあとに 仰ぐあたたら 岑のしら雪」
旧会達製糸の社歌を作詞した晩翠が昭和24年に発表会のため二本松へ来た折、花吹雪の中を散策し、その情景を詠んだものです。昭和31年に歌碑を建立しました。
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石碑の向かいにある東屋には、こんな看板がありました。
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。。。お口直しに、見晴台から安達太良連邦の眺めを!
晩翠の見た光景よりも少し季節は進んでいますが、同じく残雪の安達太良山です。
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見晴台前には、城下町から鞍石山(智恵子の杜)に至る「新奥の細道」が整備されていました。

霧ヶ城の傘松(昭和51年二本松市指定天然記念物指定)
樹齢三百年といわれている老松で、「八千代の松」ともいわれます。樹高約4.5m。約14mにもなって傘状に広がっています。
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ここは昔、霊松二本(鶴松、亀松)があり、この山を二本松山と呼んで旅人の目標となっていました。これが「二本松」という地名の由来であるという説もあります。
傘松の下には光重が造園したという回遊式庭園「るり池」があり、布袋滝を見ることもできます。


さすが「日本百名城」のひとつだけあります。
なかなか広い城内で、たっぷり2時間半の散策となりました。

載せきれなかった写真も多いので、この度もスライドショーにまとめました。
お時間の許す方、一緒に城巡りした気分になってみてください。

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